朝比奈颯季　ネット小説 / 軽井沢ヴィラ・ヘメロカリス第２１章　消えた身代金　：　Satsuki Asahina Web Novel / Karuizawa Villa Hemerocallis

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軽井沢
ヴィラ・ヘメロカリス

第２１章
消えた身代金

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　第２１章　消えた身代金

　今日のヴィラ・ヘメロカリスの成功は、石墨の貢献があってこそという事は、愛子も寛司も良く分かっていた。だからこそ、身代金として、銀行から三千万円を用立てしてきた。
　しかし、アタッシュケースに詰める直前になって、寛司が愛子に耳打ちをした。
「なぁ、上下の数枚だけを本物にして、残りは紙切れに入れ替えておかないか？」
「でも、あなた。犯人にばれて、それが原因で専務が殺されたら、どうするの？それに、たとえ上手くいったとしても、その事が、他の社員にばれたら、社員の命を値切ったと思われるわ。そうしたら、私たちの信頼はガタ落ちよ。今さらバタバタしても始まらないわ。余計な小細工止めましょう」と強く拒絶した。
　寛司は、愛子の意見に従った。

　社長室に、長野県警から派遣された特別捜査官が入り、犯人からの連絡を待っていた。
　電話が鳴るたびに、ドキリとした。しかし、それらは全て仕事関係の連絡だった。朝から待ち通しで、社長室に籠もっていたが、なしの飛礫だった。午後３時を回っても、犯人からの連絡はなかった。
　３時半頃、寛司の携帯電話が鳴った。非通知だった。
　前もって捜査官から指示されていた通り、携帯を録音モードにした。
「３千万円は用意できかたか？」
　声は、機械的に変音されていた。
「ああ、用意できた」
「１千万円ずつ三つのポリ袋に詰めろ。それから、金をトランクに入れて車で旧碓井峠の熊野神社へ向かえ。駐車場に車を停めて、金を車に残したまま、鍵を掛けずに見晴台に行け。運転は、副社長にさせろ」
「おい、専務は無事なんだろうな」
　寛司は叫んだが、返事なく電話が切れた。
　捜査員たちが、音声を機材に再録音して何度も聞きなおしていた。

　犯人からの電話を受けて、観光客に変装した数人の捜査員が、旧碓井峠の見晴台に向かった。
　愛子は、愛車のＢＭＷのオープンカーに乗り込んだ。現金は、トランクに積んだ。その狭いトランクに、捜査員の高見沢が身を縮めて潜(もぐ)り込んだ。
　汗ばむ手でハンドルを握って、車を旧軽井沢へ向かわせた。
　苔生す別荘地を過ぎると、蛇行した細い山道となった。アスファルトには亀裂や穴凹が多く、ガタガタして走りづらかった。

　愛子は犯人の指示通り、熊野神社の駐車場に車を停めて、見晴台へ向かった。
　見晴台では眼下には、妙義山(みょうぎさん)などの上信県境の山並みが広がり、その谷間には霧が出て、絹糸のように山を流れていた。
　愛子は、周囲を見回してみたが、犯人らしき人物は見当たらなかった。
　不意に、愛子の携帯が鳴った。非通知だった。
「軽井沢インターから高速に入って、佐久のサービスエリアで待て」
　電話は愛子が返事をする間もなく切れた。

　愛子は直ぐに、軽井沢インターへ向かったが、軽井沢の道路は渋滞していた。
　１時間ほどして、ようやく軽井沢の高速道路のゲートを通過する事ができた。
　長いトンネルを何回か過ぎて、佐久のサービスエリアの駐車場に車を停めた。
　暫くすると、また携帯が鳴った。
「佐久インターで高速を下りて、出口正面にある、おぎの屋の駐車場で待て」
　それだけ指示して電話は切れた。

　愛子は再び車を走らせた。
　フロントガラスから入ってくる西日が愛子の目を突き刺した。アタッシュケースからサングラスを取り出して、西日を凌いだ。
　犯人の指示通り、佐久インターで下りて、おぎの屋に入った。駐車場には、観光バスを始めとしてたくさんの車が停まっていた。
　到着して間もなく、はかったように携帯が鳴った。
「軽井沢に戻って、信濃追分駅で待て」と言って電話は切れた。
　愛子からの連絡を受けて、主任捜査官の清水が、近隣の警察署に連絡して、軽井沢に応援部隊を集結させた。
　日没の時間が迫ってきた。暗くなると警察にとっても不利だが、犯人にはもっと不利になる。そろそろ、犯人が、本格的に動いてくるだろうと、清水捜査官は気を引き締めた。

　愛子は、国道１８号線を走って、軽井沢へ戻った。軽井沢では、夕霧が出始めていた。
　軽井沢の追分宿の裏道に入り、信濃追分駅に到着した。
　夕暮れが迫り、次第に霧が深くなっていた。無人の駅舎の街灯は、既に点灯していた。しばらくすると、携帯が鳴った。
「警察が動いているようだな。さては通報したな」
「いえ、してません」
　愛子の声は震えた。
「スパイがいると警告しておいたはずだ。ホテル内で、刑事が嗅ぎまわっていたぞ」
「警察に知らせてはいません。信じて下さい」
　愛子は必死に弁解した。
「ふん、まぁいい。言われた通りに、金を三つの袋に分けて持ってきただろうな」
「はい」
「よし。では、そこから軽井沢大橋に向かえ。手前で車を停めて、指示を待て」
　犯人は指示を出すと、直ぐに切った。
　愛子は寛治に電話した。
「犯人は、警察に勘付いたみたいよ」
「何だって…」
「犯人は、刑事がホテル内を嗅ぎまわっていたと言っていたわ」
「そんな馬鹿な、社長室以外には出入りしていなはずだ。まぁ、ばれたら、ばれたで仕方がない。それで、犯人は何と言ってきた？」
「次は軽井沢大橋に向えと指示してきたわ」
「そうか、くれぐれも慎重に行動してくれ」

　愛子は、電話を終えると、再びエンジンを掛けて軽井沢大橋に向かった。
　橋の手前で道路脇に車を寄せると、見計らったように携帯が鳴った。
「いいか、道端にある祠の前に猫車が置いてある。それに金を乗っけて、橋の真ん中まで押してゆけ」と言い残して切れた。
　愛子は、トランクに隠れている高見沢捜査員に、
「五分経っても帰ってこなかったら出てきてちょうだい」と言い残してから、車を出た。
　橋の手前にある祠は、自殺者の供養祠だった。
　軽井沢大橋は、断崖絶壁の渓谷に架かる橋で、自殺の名所だ。落ちたら最後、間違いなくあの世行きだ。
　愛子は、犯人の指示通り、現金の入った袋を猫車に乗せて橋を渡った。深い霧が橋を覆い、まるで霧の河に橋が架かっているようだった。
　猫車を押しながら橋を進んでいき、真ん中付近まで来た頃に、電話が鳴った。
「橋の真ん中に着いたか？」
「はい」
「よし、先ず、現金の入った袋を投げ落とせ」
　愛子は、一袋ずつを持ち上げて、思いっきり放り投げた。
「次は、お前の携帯電話を橋から投げ捨てろ。その後は、猫車を押して橋の反対側に渡れ。そこに、次の指示が書いた紙が置いてある。それに従え」と言い残して電話は切れた。
　愛子は、霧の中へ携帯電話を投げ捨てた。
　それから、恐る恐る猫車を押して、霧に覆われた橋の上を歩いた。
　橋の対岸に渡ると、「軽井沢大橋」と刻印されたプレートに、紙が挟まっていた。
「夕菅の祟りだ。お前も、橋から飛び降りて死ね」と書かれていた。

　トランクに隠れていた高見沢捜査員は、五分経っても何の音沙汰もなかったので車を出た。
　濃霧に閉ざされた橋の上を匍匐前進でゆっくりと進んだ。
　霧の滴で湿った橋の上は雨後の地面のように冷たかった。手には拳銃をしっかりと握っていた。何処まで進んでも霧ばかりで愛子の姿は見当たらなかった。
　結局、愛子の姿を見つけられないまま、橋を渡りきってしまった。
　高見沢は不安になった。若しかしたら、愛子は犯人に橋から投げ捨てられたのかも知れない。そう思った時、霧の向こうから啜り泣きのような微かな声が聞こえた。
　高見沢は、身を屈めて音を立てないようにゆっくりと歩いた。白くうねる霧の中に、青褪めた顔で涙を流している愛子の姿があった。
　高見沢は、愛子に駆け寄って経緯を聞いた。そして、犯人にしてやられたと臍(ほぞ)を噛んだ。
　おそらく、愛子を孤立させている間に、金を猫ババして逃げたのだろう。高見沢は、直ぐに主任捜査官の清水に電話した。

　高見沢からの連絡を受けて、清水は軽井沢大橋に通じる道路を全て封鎖させた。そして、近隣の警官を総動員して、軽井沢大橋直下の捜索をすることにした。
　しかし、捜索は難航を極めた。
　断崖絶壁に架けられた橋なので、直接の川岸に落ちてゆく道路がなかった。橋の直下に行くには、数キロ上流の河原から歩いていかなければいけなかった。
　河原に到着した頃、既に日は暮れて山峡は闇の中だった。さらに、捜索を困難にしたのが、周辺を覆いつくした深い霧であった。ライトの灯りが霧に反照して、現場の見通しは全く利かなかった。
　そのような状況で、懸命な捜査が続いたが、何の成果もないまま、その夜の捜査は打ち切られた。

　第２１章　終了

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