朝比奈颯季　ネット小説 / Satsuki Asahina Web Novel : 軽井沢ヴィラ・ヘメロカリス / Karuizawa Villa Hemerocallis : 第１６章容疑者の逃亡

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　第１６章　
容疑者の逃亡

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　第１６章　容疑者の逃亡

　営業部長の柳沢から、愛子に電話が掛かってきた。
「副社長、今日、専務はホテルの方に顔を見せましたか？」
　柳沢の口調は、イラついていた。
「いえ、見てないわね」
「そうですか。そっちにも居ませんか…困りましたね」
「確か今日は、波田野代議士と会食をする予定ですよね」
「ええ、その席で大規模開発の打ち合わせをする予定だったのですが、時間になっても専務が現れなかったんです」
「彼の携帯には連絡したの？」
「しましたが、つながりませんでした。結局、代議士は、約束を反故にされたと激怒して、お帰りになりました。セッティングした私の面子は丸潰れですよ」
　愛子は直ぐに、代議士の自宅がある上田市に向かった。
　そして、謝りに謝り抜いて何とか事なきを得た。

　愛子は大規模開発には中立の立場を守っていたが、代議士との関係が悪化すれば、後々、他の事業にも悪影響が出るので、何とか良好な関係を繋ぎ止めておきたかった。
　上田市から軽井沢に戻り、愛子は「ふーっ」と長い溜息をついた。
　心身ともに疲れていた。
　事ある毎に対立する柳沢と石墨の間に入って、何とか丸く収めてきた。
　だが今日のことで、柳沢も堪忍袋の緒が切れたらしく、大規模開発のプロジェクトから外してくれと言い出す始末だった。
　元々、柳沢は大規模開発には反対だったが、「社長の命令ならば仕方がない」と渋々、石墨と協働していたが、今日の出来事が止めを刺してしまった。
　肝心な時に限って、社長の寛司は不在だった。
　何度も電話したが、繋がらなかった。

　社長室に、稲葉が入ってきた。
「副社長、お疲れのようですね」
「専務が波田野代議士との約束をすっぽかしてしまったの。それで、代議士のご機嫌を取りに行ってきたのよ。おまけに、柳沢さんもプロジェクトから降りたいって言い出す始末で…。私、疲れちゃったわ…」と額に手を当てた。
「先ほど私も、柳沢さんから愚痴られましたよ。それにしても石墨さんは、どうしたんですかね。仕事をすっぽかすような人ではないのに」
「そうなの。それが一番気掛かりで…」
　愛子は、眉間を指で押さえて首を振った。
　激しい偏頭痛がした。
「もし気分が悪いようだったら、この後に予定していた札幌の新プロジェクトの打ち合わせは、後日に延期しましょうか？」
「気を使ってくれて、ありがとう、大丈夫。その件は、早めにアクションを取らないといけわ。数日の遅れが、大きく響くでしょう。確か、発表者は、相沢さんね」
「えぇ、彼女には、マスタープランの詳細を詰めてもらっています。買収するのか、新規に建設するのかを決めるために、来週、もう一回、札幌に飛んでもらう予定です」
「分かったわ、詳しい話は打ち合わせで聞かせてもらうわ」

　社長室のインターホンが鳴った。受付からだった。
　木内と名乗る刑事が、石墨を尋ねて来たらしい。
　愛子は、刑事と聞いてドキッとした。
　若しや、去年のセクハラ事件が発覚したのだろうか、それとも…
　愛子は、専務は不在だと告げたが、刑事は、責任者を出せと言って譲らなかった。
　愛子は、社長室まで通すように受付に伝えてから、大きく溜息を漏らした。
　扉をノックして、刑事が入ってきた。
　刑事の後ろには、犬養がいた。
「犬養、何でお前も一緒に来たんだ。刑事さんたちを案内して来たのなら、もう出て行っていいぞ。しかも、お前、何で普段着なんだ」
　稲葉が、眉を顰めた。
「僕は今日、休みですよ」
　犬養が、苦笑いした。
「休日出勤するとは聞いていなかったぞ」
「はぁ、仕事で来た訳ではないんですが…」
「じゃあ、何しに来たんだ。取りあえず、早く出て行け」
「いやいや、彼には居てもらいます。重要な参考人ですから」
　木内刑事が、稲葉を制した。
「参考人？犬養、お前何かやらかしたのか？」
　稲葉が、キリッと犬養を睨んだ。
「僕は何もしていませんよ。むしろ、逆です」
「逆とはどういう意味だ」
　稲葉が、首を傾げた。

　木内刑事が稲葉の前に出て言った。
「私から説明しましょう。報道などで既に知っていると思いますが、昨日、鼻顔稲荷付近の湯川で身元の不明の遺体が見つかりました。犬養さんの情報提供から、それが、ここの宿泊客であった矢崎誠治さんという事が分かりました。また、捜査の過程で、殺人事件である可能性が出てきました」
「テレビでは事故と報道されていましたが…」
　稲葉が、首を傾げながら尋ねた。
「警察は常に万全を期して捜査に当たっております。本件も事故、事件の両面から調べを進めた結果、殺人事件とみて鋭意捜査中です」
「その事件で、我が社の専務が疑われているという事ですか」
　稲葉が、迷惑そうな顔付きで首を振った。
「被害者が、殺害される前、石墨専務と二回ほど飲みに行ったという事が分かっています。そこで事件解決のため、被害者が宿泊していた部屋の捜査と、専務の取調べを行います」
「分かりました。矢崎さんの泊まっていた部屋には、後ほど案内させましょう。しかし、残念ながら、専務は不在にしております」
　愛子は、返答した。
「今日は休日なんですか？」
「いえ、休日ではないんですが、連絡が付かないんです。今日は、大切な仕事があったんですが、私たちも彼と連絡が付かなくて困っていたんです」
「それは、行方を眩ませたという疑いが強いですなぁ。こりゃ、益々怪しいですなぁ」
「そんな、彼は人殺しをするような人では…」
　愛子は、語尾を濁した。
　そして、心の中で呟いた。
「あの男なら、自分の利益のためなら、人殺しをするかも知れない…」

「それで、専務は、いつから姿を見せていないんですか？」
　木内が、尋ねた。
「専務は、昨日、一昨日と連休でした。なので、ここ三日間、顔を見せていません」
　愛子は、答えた。
「と言う事は、専務のアリバイはなしということですな」
　木内刑事が、不敵に微笑んだ。
「私からは、何とも言えません…」
「さて、参考までにお聞きしますが、あなた方は、矢崎さんと面識はあったのですか？」
　木内刑事が、愛子と稲葉を睥睨(へいげい)した。
「全く在りません。私たちは、普通の宿泊客と会うような仕事ではありませんので」
　稲葉が、面倒くさそうに話した。
「私も面識はございません。ただ…」
「だだ、何でしょう？」
「面識とまでは行きませんが、フォトコンテストの表彰式で顔を合わせました。しかし、これと言った会話は何もしていません」
「それでは、質問を変えましょう。おたくの専務が矢崎さんと親しくしていた事は知っていましたか？」
「矢崎さんへ撮影の仕事を依頼していた事は聞いていましたが、特に気にもしていませんでしたし、まさか、こんな事態になるなんて…」
　愛子は、めまいを感じて、こめかみに手を当てた。その瞬間、ふらっと意識が薄れた。
「愛子さん、大丈夫ですか」
　犬養が、咄嗟に飛び出して腕で止めた。ひどい熱だった。
「刑事さん、すいませんが、今日の所はお引き取りください。副社長は、熱があるようです。心労が溜まったんでしょう」と毅然と言った。
　その声には有無を言わせぬ強い響きがあった。

　木内は、鑑識が到着するのを待って、矢崎が泊まっていた部屋の捜査を始めた。
　ドアを開けて中に入ると、室内の豪華さに目を見張った。
　去年、家族四人で泊まったディズニーランドのホテルは、豪華だったが、その比ではなかった。
　こんな豪奢な部屋を無料にしたということは、石墨と矢崎の関係が只ならぬものである事を裏付けていると、木内は感じた。
　矢崎の遺留品を探してみたが、着替えが入った大きなリュックぐらいしかなかった。
　犬養の証言では、矢崎は写真を撮りながら一人旅をしていたらしい。
　だが、それらの写真は見当たらなかった。
　現場やレンタカーの中からも、写真は見つかっていなかった。
　木内は何か不自然なものを感じた。
　マホガニーの木机の上に、二つに破られた写真が置いてあった。
　つなぎ合わせてみると、白いＴシャツを着て、サングラスをした茶髪の男が、カメラに向かって手を翳(かざ)していた。
　まるで、デート現場を取らそうになった芸能人のような仕草だった。
　この写真を矢崎が破り捨てたということは、この写真の相手に対して、不愉快な感情を持っていたと見て間違いないだろう。
　他には目ぼしい物は見当たらなかった。

　一通りの調査を終えた木内は、受付に行き、石墨の電話番号を聞き出した。
　アパートと携帯に電話してみたが、やはり出なかった。
　自宅のある神奈川の方へ電話してみたが家族は留守のようだった。

　木内は、金子と共にホテルを出て、駐車場へ向かった。
　花壇で、老人が草取りをしていた。
「ご苦労さん。精が出ますな。所で聞きたいことがあるんですが、ちょっくらいいかな？」
　老人は、額の汗を拭って木内の顔を見上げた。
「何だいな。あんたは、誰だい？」
「私は佐久署の刑事で、木内という者だ」と警察手帳を見せた。
「刑事が、何の用だい？」と警戒した表情を見せた。
「爺さんは、このホテルの従業員かい？」
「従業員みたいなもんだな、用務員みてぇな仕事をしてるだに。庭弄りや雑用係だな」
「そうかい。所で、ここ数日の間に、おたくの専務を駐車場で見かけなかったかい？」
「さぁ、見た覚えはねぇな。駐車場には、引っ切り無しに色んな車が出入りするから、一々、全部見てねぇだよ」
「そりゃ、そうだな。ありがとう、爺さん。手間を取らせたな」木内は礼を言った。

　その時、ホテルの玄関から、犬養が走り出てきた。
　彼は、草むしりをしていた老人の所へ走り寄って来た。
「会長。副社長が熱を出して倒れてしまいました。おそらく心労でしょう。今はベッドに横になって、ようやく落ち着きました。本人は寝てれば治ると言っていますが、僕は、病院へ連れて行った方が良いと思うんです」
「本人が大丈夫って言ってるなら、寝かせておけば大丈夫だろう。それにしても、寛司は何をしとるだ。自分の妻が倒れたっつうのに」
「社長は、今日も出張中です。熱海の方にも連絡したんですが、電話が通じなくて…」
「全くあいつは、どこ、ほっつき歩いてるだ」　と老人は怒りを露にした。
「爺さん、ここのホテルの会長だったの？」
　木内は恐る恐る尋ねた。
「まぁ、肩書きはな」
「社長の父親と言うことですか？」
「ああ、そうだ。今じゃ全く息子に頭が上がらねぇけんどな。隠居して気楽に庭弄りしたり散歩したりしてるだけで、息子に食わせて貰ってる身分ですからのう」と自嘲じみた笑いを浮かべた。
　木内は、ホテルの人間関係について尋ねることにした。
「会長さん、ちょっくら聞きたい事があるんですけども。まぁ、お決まりの事情聴取なんで、構えないで答えて下さいや。あの綺麗な副社長さんは、社長の夫人ですか？」
「あぁ、息子の嫁だよ」
「では専務も親戚ですか？」
「いや、専務は外様じゃよ」
「外様ということは、親戚ではないと言うことですな。他に、従業員で親戚の方は居ますか？」
「営業部長の柳沢は、俺の従弟だ。総務部長の土屋は、娘の旦那のだよ」
「幹部で親戚以外の人間は、専務だけと言うことですな？」
「いや、経営戦略局の稲葉も外様だ」
「稲葉と言うと、さっき社長室にいた男だな」
　木内は、さっき会った稲葉の容姿を思い浮かべた。
　スレンダーな体型に、気障っぽい甘いマスク。
　見るからに、もてそうだ。
　寸胴で、厳つい顔の木内が、好きになれないタイプの男だった。

　会長が、懐かしむような目をして話し始めた。
「俺が社長をしていた頃は、親族だけで経営していたんだ。その頃は、建物も古かったし、客も多くはなかった。だけんど、自分なりに頑張って、家族が食うに困らないぐらいの稼ぎはしてただよ。そりゃ辛い時もあったけんど、皆で力を合わせて乗り切った。息子に会社を任せてからは、どんどん、社外の人間が入ってきた。今では、外様の二人が、この会社を引っ張っている。息子に言わせりゃ、家族経営の時代は、もう終わったっつうことらしい」
「社長は、熱海へ出張中っていうことですが、具体的に何の用事で行っているんですか？」
　木内は、手帳を捲った。
「最近、熱海にある老舗旅館を買収したんだ。その件で熱海にこもりっきりだ。息子には、仕事も大事だが、自分の健康と、家族をもっと大事にしろと言ってるんだが、俺の言う事は聞きやしねぇ。
俺は経営者としては平凡なものだったから、大成功した息子からみれば、僻みにしか聞こえないんだろうな。息子は、小さい頃に心臓の病気をやったもんで、親としては、働き過ぎで倒れるんじゃねぇかと心配なんだ。所で、刑事さんには子供がいるだかい？」
「はい、五歳の息子と三歳の娘がいます」
　子供の事を聞かれると、木内は思わず顔が綻んだ。
「そうかい、羨ましいわ。子供は宝物だからのう。俺も早く孫の顔が見たいんだけんどなぁ」
「そればっかりは授かり物ですからねぇ」
「そうだなぁ。刑事さんは、さらに作る予定はあるだかい？」
「出来ればもう一人ほど。」
「そりゃ、てぇしたもんだ。子供も作れる時に作っておかねぇと、年取ってからじゃ大変だからな。昼の仕事も大切だけんど、夜の仕事にも励むように、息子に言っておいてくれよ、刑事さん」
「はぁ、そうですなぁ」
　木内は、予想外の問い掛けに苦笑いするしかなかった。

　木内は、ヴィラ・ヘメロカリスを後にして、石墨のアパートに向かった。
　扉の呼び鈴を押しても返事はなく、中に誰かがいる気配もなかった。
　郵便受けには、新聞が数日分、溜まっていた。
　木内は、腕組みをして考えてみた。
　会社にもいない、アパートにもいない…
　となれば考えられるのは、捜査から逃れるために逃亡しているということだ。
　若しくは、観念して自殺した可能性もある。
　何れにせよ、石墨が行方をくらましていることは、自分から犯人だと名乗り出ているようなものだ。
　この事件は、以外に早く片付きそうだなと木内は思った。

　第１６章　終了

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