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第９章 ホッケとタラバガニ
三ツ橋晃は仕事を終えると、傘をさして大学を出た。
そして、最寄りの停車場から札幌市電に乗った。
外は薄暗かった。
６月に入ったとはいえ、札幌の夜はまだ肌寒い。
ここ数日は、蝦夷梅雨が続いていた。
北海道には梅雨がないといわれるが、道産子は、同じ頃に降る長雨を蝦夷梅雨と呼んでいる。
内地のように、むしむしとした感じはない代わりに、冬の氷雨のような冷たい雨がしとしとと降り続く。
路面電車に揺られて１０分ほどで、終点の西４丁目の停車場で到着した。
西４丁目の交差点には、三越や四丁目プラザというデパートがあり、札幌でも数少ないスクランブル交差点になっている。
三ツ橋は、交差点を渡って、ススキノ方面へと向かった。
妻には、今夜は医局のお偉方と飲み会があるから遅れる連絡しておいた。
馴染みの炉端焼き屋の 「 いこい 」 の暖簾(のれん)を潜った。
煌びやかなススキノの中にあって、こじんまりとした店だが、札幌っ子には人気の店だ。
観光客向けの奇を衒(てら)った料理は出さない。
素材の味を活かした料理人の腕で真っ向勝負できる店は、ススキノでも多くない。
手頃な値段も嬉しい限りだ。
予約席に座って暫くすると、葉山美絵がやってきた。
ソバージュがかった長い髪を後ろでアップにしていた。
うなじのほつれ毛が何とも艶かしい。
イタリヤの高級ブランドスーツを着ていた。
以前、三ツ橋が、プレゼントしたものだった。
二人は、お品書きを見て、羅臼(らうす)産の特大ホッケと日本酒を注文した。
三ツ橋は日本酒をあまり飲まずに、ビール派だった。
北海道贔屓(びいき)の彼の家の冷蔵庫には、サッポロビールが常備されている。
しかし、美絵と付き合うようになってから、日本酒好きの彼女の影響で、一緒に日本酒を嗜(たしな)むようになった。
注文したのは、北海道の増毛(ましけ)地方の銘酒である国稀(くにまれ)と、秋田の北鹿(ほくしか)という酒蔵の雪中貯蔵という酒だった。
店員が、枡に入ったグラスをテーブルの上に置き、一升瓶から酒を注いだ。
トクトクと音を立ててグラスを満たす日本酒が、グラスから零れ出て、枡の中も満杯になった。
一般常識では、溢すのはモラルに反する行為だ。
そんな事を医局のお偉方いる飲み会の席でやったら将に、阻喪(そそう)だ。
院長の服を汚しでもしたら、出世の道が立たれる可能性すらある。
三ツ橋は、酒がグラスから零れ出る瞬間が好きだった。
グラスから溢れるというインモラル的な瞬間を見ると、何故か心がホッと和むのだった。
炭火で焼かれた特大のシマホッケを突っつきながら、日本酒で舌をうるおした。
最高級といわれる羅臼産ホッケは、白身に滴るほどの旨味が含まれていて美味しかった。
ホッケの部位で、最も美味しいのは、パリパリに焼かれた表面の部分だ。
背骨に沿って付いている薄皮のような身に、ホッケの旨味が凝縮されているといっても過言ではない。
特に、酒の肴にする時には最高だ。
京都出身の三ツ橋が、北海道に来て驚いたのがホッケのデカさと、その美味しさだった。
今でこそ、ホッケは全国の居酒屋メニューの定番だが、三ツ橋が子供の頃は、京都でホッケなど出回っていなかったので、こんな美味しい魚があったのかと驚いた。
以前、京都へ帰省した時に、居酒屋でホッケを頼んだが、その貧弱さに失望してしまった。
干乾びて身が細く、しょぱいだけだった。
こんなものホッケじゃないと文句が言いたくなる。
北海道のスーパーで、安い値段で売っているホッケの方が数倍美味しい。
三ツ橋は、ホッケだけでなく北海道の食い物の美味しさに魅了された。
札幌の医大に進学した頃は、卒業したら地元の京都に戻ろうと思っていた。
しかし、北海道を離れがたくなり、親の反対を押し切って、研修医として札幌の大学に残った。
製薬会社の社長をしていた父親の潤一郎に正面切って逆らったのは、その時が初めてだった。
研修医を終えてからも、そのまま札幌の大学病院に居座って、札幌の女性と結婚した。
北海道の味に魅了されなければ、今頃、京都にある父親の製薬会社の研究所で働いていたことだろう。
ホッケが自分の人生を変えた一因であると思うと、なんとも不思議な縁(えにし)を感じた。
店員が、北海道産の料理を次々と運んできた。
今が旬で、朝摘み直送の共和町(きょうわまち)産のホワイトアスパラ。
グリーンアスパラよりも柔らかく、仄かな苦味と甘みがある。
北海道ならではの初夏の味覚だ。
そして、北海道と言えばタラバカニ。
皿に盛られて出てきたのは、タラバカニのぶっとい足の丸焼きだった。
店員が、カニと一緒持ってきたのが軍手。
これが、焼きタラバを食べる時に役に立つ。
５月から１０月がタラバガニの旬である。
道東からの直送品で鮮度が良い。
殻付きの焼きたてホクホクのカニ足を、軍手を嵌めて鷲掴みにして、むしゃぶりついた。
磯の香ばしさが漂い、調味料なしでも潮の味とカニの甘みが絡まって極上の旨さだった。
タラバガニは焼いて食べるのが一番だ。
一度、この味を覚えたら、病み付きになってしまう。
焼きタラバで、更に日本酒のペースが進んだ。
美絵は、冷酒で口を馴染ませながら、焼きタラバに豪快にしゃぶりついた。
三ツ橋は美絵の口許を眺めた。
美味しい肴に酒が進んだ美絵は、うなじや頬を仄かに赤らめて、満足げな顔で三ツ橋を見詰め返した。
カニを食べ尽くした美絵は、お品書きに手を伸ばして、松前町(まつまえちょう)直送のスルメイカの姿焼き、熊石産のアワビの網焼き、鵡川(むかわ)産のシシャモを注文した。
シシャモと言うのは、実は、北海道の太平洋側の沿岸にしか生息しない。
スーパーなどでシシャモとして売られているのは、外国産の偽シシャモだ。
当然、本物のシシャモは目が点になるぐらいの値段がする。
今夜の美絵は、値が張る料理ばかりを注文していたが、三ツ橋は全くに気にしなかった。
彼女の働きのお陰で、有望な特許を取得できそうだった。
ライバルに先んじて、特許を出願した事で、将来、莫大なライセンス料が入る可能性がある。
ライバルの西嶋真之は、法廷闘争に持ち込んだが、無駄なあがきだ。
将来、懐に入ってくる特許料に比べれば、今日の飲食代など雀の涙だ。
それに、美絵の野性味溢れる食欲からすれば、今夜は、いつも以上に熱い夜になりそうだ。
三ツ橋は、興奮気味に美絵を眺めてから、枡に残った日本酒を呷った。
炉端焼きを出た二人は、腕を組みながら一つの傘に収まり、ネオン煌めくラブホテル街に消えて行った
第９章 終了
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