朝比奈颯季　ネット小説　神成探偵社の事件簿1～支笏湖に消ゆ～　第１１章　神の薬、モルヒネ

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支笏湖に消ゆ　；　神成探偵社の事件簿１

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神成探偵社の
事件簿１
-支笏湖に消ゆ-

第１１章：
神の薬
モルヒネ

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　第11章　神の薬、モルヒネ

　西嶋真之は休日出勤した。若い研究員たちも休日返上で新薬の開発に取り組んでいた。午前中、若手の中で最も期待している鈴木大貴と今月下旬、札幌で開催される国際医薬学会で発表するテーマや特許訴訟について打ち合わせをしていた。鈴木は去年まで研究室で博士課程をして今年の春、博士号を習得した。そして今春からゲノメディカに研究員として就職した。数年後には研究所を引っ張っていくリーダーになるのは間違いないだろう。三ツ橋製薬と係争している研究の実働部隊のリーダーも鈴木だった。
　この世で最も優れた鎮痛剤はモルヒネだ。人間的な生活を奪う激しい痛みを取り払ってくれる神の薬である。真之と鈴木はこのモルヒネの代用薬に関する研究に取り組んでいた。だが、その研究結果を丸ごと三ツ橋製薬に盗用されたのだ。
　以前は、末期の癌患者が心身を喪失するような激痛にのた打ち回っても医師は中毒症状を懸念してあまりモルヒネを処方しなかった。何故ならモルヒネは悪魔の麻薬と言われるアヘンと同じ成分なのだ。末期癌の強烈な痛みは体の内部が癌細胞に食われて行く時に感じる肉体の悲鳴である。まさに生き地獄だ。どんなに屈強な精神の持ち主でも精神は疲弊し人間らしい生活を送る事は出来ない。人間は日夜を問わず襲われる激痛から解放されるならば死を願うこともある。
　かつてはタブー視されていたモルヒネであるが今日では、その中毒症の懸念は払拭されて癌患者の激しい痛みを取り除くために的確な診断の後に処方されている。癌細胞を死滅させるだけが医療ではない。患者が人間らしく生活できる手助けをするのも医療であるという考えに変わってきたのは望ましいことだ。医薬の進歩により多くの痛み止めの薬が作られてきた。だが未だにモルヒネを超える傷み止めの薬はない。
　モルヒネは芥子の実から作られる。一般人が最もよく目にする機会が多いケシ科の植物は園芸用のポピーの花だろう。しかしケシ科の植物全てからモルヒネが抽出される訳ではない。地球上に存在する何十万種類とある植物の中でモルヒネの成分を含んでいるのは芥子だけなのだ。将に神がもたらした奇跡の植物といえる。
　人間がこの芥子の不思議な薬効に気が付いたのは有史以前とも言われている。創薬の仕事に携わっているからこそ昔の人々の知恵に驚嘆を覚えずにはいられない。モルヒネを超える薬は科学技術が進歩した現代においてもないのだ。芥子を薬草として使っている分には問題はなかった。だが人間の欲望は留まる所を知らずアヘンという麻薬を作り上げてしまった。神の妙薬が堕天使の麻薬となってしまった。　人間は、芥子の品種改良を重ねてソムニフェルムという鶏卵ほどの大きさの朔果をもつ品種を作り出した。そして、その実の表面を傷つけて滲み出してきたアヘン液を集めて悪魔の薬を作りだす。
　アヘンが世界を席捲したのはキリスト教国のイギリスがインドを占領してからだ。広大で肥沃な穀物畑を芥子のプランテーションに作り代え無料同然にインド人を酷使し大量のアヘンの製造に着手した。食糧難で死んでゆくインド人労働者を尻目に麻薬の大量栽培を続けた。過剰生産したアヘンをお茶の貿易で赤字がかさんでいた清国（今の中国）に売るという世界史上、稀に見る国家的犯罪を始めた。しかも当時イギリス国内ではアヘンは非合法な麻薬として取り締まっていたにも関わらずだ。
　政治汚職が蔓延し社会的な閉塞感が広がっていた清国では多くの人間がアヘンを吸引し人間性の頽廃が進んだ。実に成人男子の半数がアヘン中毒になったと言われる。事態を重く見た清国の皇帝は思い腰を上げてアヘンの取り締まりを始めた。すると自由貿易を口実にしてイギリス政府は世界最強と言われた海軍を派遣して戦争を始めた。これが悪名高きアヘン戦争だ。キリストの仮面を被った悪魔が牙を剥いたのだ。開戦の理由がどうあれ清国は戦争に負け南京条約を締結させられ香港をイギリスに明け渡した。アヘンで清国から奪い取った島それが香港なのだ。
　南京条約から１０年ほど経って米国のペリーが黒船で日本に来航する。徳川幕府は、すったもんだの末に開港を余儀なくされ、各国と通商条約を結んだ。不平等条約ではあったがアヘン戦争の情報を得ていた徳川幕府がアヘンの輸入禁止の条項を付け加えたのは幸いだった。さもなければ日本もアヘン漬けにされ日本人は廃人にされて明治維新も文明開化もなし得ずに欧米列強の食い物にされていただろう。
　アヘン戦争で敗北した後、清国はフランスとの戦争でも負けて朝貢国であったベトナムを失った。さらに朝貢国である朝鮮での内乱に端を発した日清戦争でも日本に敗れた。その後、欧米列強はハイエナのように清国に群がり、各地を租借地として占領した。清国は独立国としての国体を失い間もなくしてラストエンペラー溥儀の時代に滅亡する。
　２１世紀を前に香港はようやく中国に返還された。だが、香港がイギリスに占領された理由を知っている日本人は何人いただろう。医薬に携わっている者としてアヘン戦争という恐ろしい世界史の１ページを決して忘れることはない。
　今日でこそイギリスは、麻薬貿易を取り締まっているがほんの一世紀前にはアヘンを国家的事業として行っていたのだ。現代では、そのエゴイズムを隠してはいるが時代が巡り何時また牙を剥くか分からない。イギリスから独立した米国は敵視している国には自国の利益に反するとなれば、戦争も辞さない。表向きは民主化だのテロ撲滅だのと言っているが本当の理由は石油というエネルギーの争奪戦なのだ。真之は渡米して米国の腹黒さを嫌と言うほど味わった。医薬や遺伝子学などのバイオテクノロジーに関しても同様だ。世界中から優秀な研究者を高額な報酬で集めて薬の特許を次々と抑えていく。研究者としては思う存分に活躍できる場が提供されているのは喜ばしい事だった。しかし米国という手の平の中で踊らされているような気がしていたのも札幌に戻って来た理由の一つだった。

　薬は毒である。毒でなければ薬にはならない。
　毒の効果を少しだけ得る事で人間の体の中に病気として巣食っている毒を中和するのだ。つまり医薬とは毒を持って毒を制する事なのだ。古代から自然界に存在していたと考えられているセチゲルムという原種の芥子がある。それから特定の遺伝子を取り出し同じケシ科の植物である「クサノオウ」という植物に遺伝子を組み込む研究をした。クサノオウは日本に普通に自生する野草で初夏に愛らしい黄色い花を咲かせる。

　　　　

　　　　　　　　参考写真　：　草の王
　　　

　会社近くの空き地にも風に揺れながら黄色い花を咲かせている。初夏の頃から咲き始めて雪の降る秋口ぐらいまで咲いているものもある。生命力の強い植物で、ちょっとやそっとでは除草できない。普通の人々はクサノオウを草むらに生い茂っている単なる雑草の一つとしか思っていないだろう。クサノオウという名前の由来には諸説ある。葉や茎を切ると黄色い汁が出てくるから「草の黄」となったと言う説。この黄汁は、鼻をつく様な嫌な匂いをしている。研究者魂から試しにこの黄汁を少量だけ嘗めてみたことがあるが舌を突き刺すようなピリッとした痛みを感じた。黄汁は有毒で、多種のアルカロイド系の毒を含んでいるのだが民間薬として虫刺されや腫れ物に使われている。だが体質や量を間違えると皮膚炎を起してかぶれてしまう。また黄汁にはケリドニンという成分も入っている。中枢神経を抑えるというモルヒネに似た薬効がある。その他にはベルベリンという肝臓病に効く成分もある。肝臓に効果があるという事は古代の医学書にも書かれている。
　しかし素人の生兵法は危険だ。過去の事例ではドイツで四歳の男の子がクサノオウを食べて命を落とした。またイギリスでは家畜が中毒した事例もある。黄汁をひとなめしただけでも強烈な刺激を感じる。如何にも危険だと感じる。おそらく生で食べるなんて事は人間も家畜もしないと思うのだが…何れにせよ君子危うきに近寄らずだ。素人はその花の美しさを鑑賞するに留めて置くべきだろう。名前の由来には別の説もある。古代ギリシャからその薬効を用いられてきた事から草の中の王様と言う意味で、「草の王」になったという説だ。

　真之と鈴木は寝食を忘れて芥子の遺伝子を組み込んだクサノオウの実験を続けてモルヒネに勝るとも劣らない鎮痛作用のある物質の抽出に成功した。その実験法や抽出法、成分の組成などを特許にして出願したのだが、それと全く同じ特許を三ツ橋製薬が先願していたのだ。
　真之は血管がはち切れんばかりに憤慨した。特許は先願主義だ。実際に、見つけた時期が早かろうが出願するのが遅ければ負けなのだ。特に基本特許は、その後の副次的な成分も抑える事が出来るから戦略上、最も大切だ。特許料なくしては創薬のベンチャービジネスは成り立たない。特許を取り戻すには三ツ橋製薬が盗用した証拠を何としてでも掴まなくてはいけない。

　　　　　　　　　　　　

　　　　

　打ち合わせを終えて席を立とうとすると鈴木が話しかけた。
「そういえば、西嶋さん。机の上にメモ書きして置いて置きましたけど昨日、速見から電話がありましたよ。何だか相談したい事があるということでした」
「そうか又、電話があったか…たぶん。就職の事だろう。彼にもこまったもんだ。前にも製薬関係の仕事を紹介したんだが無断遅刻や欠席が多くて直ぐに首になったんだ」
「噂では少し前はススキノの裏業界で仕事をしていたと聞きましたけど」
「不景気でススキノの客も減って夜の仕事も景気が悪くなったんだろう」
「もう一度、研究所に戻って博士課程からやり直す事はできないんですか？」
「速見にやり直したい気持ちがあれればできるんだろうが奴にはもう、そんな気持ちはないだろう。前に就職先を斡旋した時も研究職を勧めたが楽して稼げる仕事がしたいと言っていた。金は恐ろしいもんだ。一度、楽して大金を手にすると人格まで変えてしまう…」
「残念ですね速見は研究者としては優秀な男でしたからね。真面目に研究者の道を進んでいれば論文や特許も僕以上に書いていたでしょうね」
「そうかもしれないな。確か君と速見は同期だったな」
「そうです。学部の頃から一緒で優秀でした。大学院の修士試験でも首席でしたよ」
「道を間違わなければ君と並んで研究をガンガン引っ張ってくれていただろうな。奴の夜遊びを早めにやめさせておけば良かったと後悔しているよ」真之は唇を噛んだ。

「話は変わりますが今度の学会には涼子ちゃんも顔を出すって言ってましたよ」
「そうか藤森が来るのか、それは楽しみだな。しかし彼女も速見の夜遊びには苦労させられていたからなぁ」真之はそう言って彼女の顔を思い浮かべた。
　藤森涼子は去年まで西嶋の研究室で修士課程をしていて昨年度に卒業して大手製薬会社に就職した。彼女は学生時代、速見と付き合っていた。涼子が研究室に入って来た時、教育担当となったのが速見だった。最初の頃は仲睦まじくお似合いのカップルだった。
　しかし速見が夜遊びにはまり始めてからは喧嘩が絶えず研究室で見かける彼女は悩んで憔悴していた。真之は何度も相談に乗り教授室で延々と話を聞いたり飲みに行ったりもした。精神的に病み始めていると感じた真之は、彼女にカウンセリングの医師を紹介した。結局、速見は研究室を去り涼子は彼と別れた。別れてからは、吹っ切れたように研究に没頭した。

　涼子の研究テーマはエキノコックスというキタキツネの寄生虫で、その寄生虫が狐の体内で出す化学物質の抗癌作用について論文としてまとめた。その論文はアメリカの有名な生理学の論文雑誌にも掲載された。修士論文がその論文雑誌に掲載されるのは異例の事だ。その研究テーマを考えたのは皮肉な事に彼女の教育担当をしていた速見だった。速見は独自の着眼点を持ち真之が思いつかない研究テーマを考え付く男だった。一方、鈴木はコツコツと研究を積み重ねて結果を出すタイプだった。だが発想力という点では速見には及ばなかった。だからこそ真之には速見が必要だった…
「涼子ちゃんは製薬会社でも研究員として頑張っているみたいですね。何でも今年の秋には共同研究をしているドイツの大学に３年ぐらい留学するらしいですよ」
「そうかドイツか…随分と遠いな。しかし、彼女なら十分やっていけるだろう」
　涼子がドイツに行く事は数週間前に届いた涼子からEメールで知っていた。とぼけた理由は彼女との関係を鈴木に覚られたくなかったからだ。涼子と真之だけの秘密にしている事なのだが涼子の相談に何度も乗っているうちに彼女と関係を持ってしまった。涼子から部屋に誘ってきたのだが教え子と関係を持ってしまったのは真之の自制力のなさからだった。ちょうどその頃、日本に戻ってきて研究室の研究とベンチャーの立ち上げで鬼のように忙しかった。疲れ切っていた心の隙間に迷い猫のように涼子が入り込んできた。涼子を癒していたつもりだったが癒されていたのは真之の方だった。

　　　　　　　　　　　

　　　　　　　　　

　涼子が就職して札幌を離れてからは2人の関係はどちらから別れるという話もないまま、フェードアウトしていった。入社して数ヶ月がたってから新しい恋人が出来たという連絡があった。真之も彼女には執着しなかった。彼女を深く愛していなかった。お互いに癒される存在が必要な時期に二人はお互いの心と体を分け合って慰めあった。そして慰めの必要な時期が終わり二人は元の関係に戻ったのだ。それから数ヶ月して真之は芳恵と出会い恋に落ちた。

「発表が終わったら研究室の卒業生みんなで温泉でも行って泊まりで飲もうと言っていましたよ」
「したら予約しておいてくれ。今回の学会は札幌で開催するから研究室のOBも相当集まるだろうな」
「えぇ未樹ちゃんにお願いして既に予約しています」
「そりゃあいい。それで何処でやるんだ？いつも通り定山渓温泉か？」
「どこだったかな?おーい未樹ちゃん。ちょっといいかい？」鈴木は大きな声で研究室の奥の方の机で論文を読んでいた伊瀬未樹を呼んだ。
　伊瀬は今春、修士課程を修了し博士課程の１年目の学生だ。
「はい、何ですか？鈴木さん」
「学会のOB会は何処の温泉を予約したの？」
「観楓会や忘年会がいつも定山渓なんで今回は趣向を変えて石狩の番屋温泉にしようかなと思ってます」伊瀬は微笑んで答えた。
「石狩の番屋の湯か。そりゃ楽しみだな。忙しい所すまないがOB会の手配もよろしく頼むよ」真之は言った。
「えぇ期待して下さい」伊瀬は、そう言って机に戻って行った。
「学会やOB会もあって忙しいとは思うが来週には弁護士や弁理士との打ち合わせがあるから特許資料の準備を今週中に完成させておいてくれ」
「資料は、もう９割がた完成しているから大丈夫です」
「それを聞いて安心したよ。したら私はこれから大学の研究室の方に戻るから今週中までによろしく頼むよ」真之は鈴木の肩を叩いた。
「はい、分かりました」

　第１１章　終了

 　　

　　　　　　　　　　
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