朝比奈颯季　ネット小説　神成探偵社の事件簿1～支笏湖に消ゆ～　第７章　待ちぼうけ

　第７章　待ちぼうけ

　安浦芳恵(やすうらよしえ)は、木造の喫茶店でコーヒーを飲みながら、壁に掛かった振り子の古時計に目をやった。
　そろそろ約束の時間だが、恋人の真之はまだ現れなかった。
　何度も口を付けた白いコーヒーカップの縁に、鮮血色のルージュが滲(にじ)んでいた。

　店内には、近くの藤女子大(ふじじょしだい)や北大(ほくだい)の学生らしき若者がいて、店内に流れるフォークソングにのんびりと耳を傾けながら、レポートの作成や読書をしていた。

　芳恵は、真之に貰ったイヤリングを、指で弄(いじ)りながら、音楽を聴いた。
　店の奥には、アンティーク感が漂うレトロなライブスペースがあった。
　以前、真之が熱く語っていたのを代弁すると、歌手の中島みゆきが、まだ藤女子大でバンドを組んでいた頃に、ここでライブをした事もあり、時々、札幌に来た時などにも、コーヒーを飲みに来る事があるという。
　しかし、今年で27歳になる芳恵は、世代が違う事もあり、それほど感銘を受けなかった。
　芳恵の世代では、同じ北海道出身の女性歌手と言えば、大黒摩季(おおぐろまき)や、ドリカムの吉田美和（よしだみわ）が真っ先に思い浮かぶ。

　芳恵は、札幌医薬大学の博士課程(ドクター)３年目になる。
　遺伝子解析から、癌(がん)の新薬の研究を進めている。
　今度出す予定の博士論文が通れば、博士課程を修了する事が出来る。
　既に、海外の学術論文も数件出しているので、来年の春にはドクターの称号を得る事になるだろう。
　だが、ドクターを修了したといっても、研究者としては、スタート台に立ったばかりだ。

　今、付き合っている真之に出会ったのは、数年前に福岡市で行われた日本医薬学会の分科会(ぶんかかい)の時だった。
　その頃、真之は米国での目覚しい研究実績を引っさげて札幌に戻ってきたばかりだった。
　西嶋真之という名前は、既に医薬学会の中では世界的に有名だった。
　関係者の中では、彼の研究結果が順調に実用化されれば、将来はノーベル賞受賞も夢ではないという声が広がっていた。

　芳恵は、同じ札幌にある札幌医薬大で研究をしていたが、大学同士はライバルという事もあり交流は殆どなく、学会で顔を合わせたのが初対面だった。
　芳恵の研究発表を聞いた真之が、芳恵の研究に興味を持ち、発表後に二人で色々とディスカッションした。
　米国から戻ったばかりの真之は、ライバル校という意識を余り持っていないようで、気さくにアドバイスをくれた。
　更に名刺交換をした際に、一緒に福岡の街に飲みに行って新薬研究に付いてディスカッションしませんかという誘いを受けた。
　世界的に有名な研究者と酒を飲みながら本音で議論し合えるという事に、芳恵は有頂天になった。

　芳恵は、担当教授には内緒で、福岡の街に出かけた。
　真之の誘いを受けたのには、他にも理由があった。
　博士号を取った後は、他の研究機関に移りたかったのだった。
　医局中心で回る大学内の雰囲気に嫌気がさしていた。
　担当教授の言う事は絶対だったし、さらに医局のお偉方の教授たちに対する周囲の態度は、天皇陛下に対する以上だった。
　更に、教授会にしても研究室にしても、コテコテの男性社会だった。
　周囲の男達は口にこそ出さないが、女医なんて先端の研究なんてしなくていいから、田舎に戻って産婦人科医か、内科の町医者でもやってればいいんだという態度だった。

　芳恵は、そんな狭っ苦しい世界で研究していく事が嫌になっていた。
　時には露骨にセクハラめいた事をいう同僚や先輩もいた。
　そういう男に限って、たいした研究成果を挙げていなかった。
　トントン拍子に優れた論文を発表している芳恵に対する嫉妬もあった。
　医学部に入って、最先端の癌の研究をしているのだから、脳みそ具合は優秀なはずなのだが、人間性は小学生のままと言う人も少なからずいた。
　そう言う男を見ると、芳恵は呆れるというよりも哀しい気持ちになってしまう。
　論文は、研究者として大切な事だ。
　しかし、論文以上に大切な物は、癌で苦しむ人たちの一助になりたいという医の心だ。
　その医の心を忘れて、ただひたすらに狭い医局の中での出世を願っている男どもを見るのはうんざりだった。

　こんな所で研究していても自分が駄目になる。
　ドクターを取ったらさっさと出てやろうと思っていたのだ。
　そう思っていた矢先、真之が目の前に現れた。
　将に、渡りに船だった。
　真之とのコネを作っておけば、　新設された先端医薬研究所や、彼が設立した創薬ベンチャー会社などにも就職できるかも知れないという打算が働いたのも事実だ。
　だが、そこは実力主義で、日本全国から優秀な研究者が集まってきているという事だったが、芳恵には願ったり叶ったりだった。

　芳恵は、酔った勢いで正直にその事を真之に伝えて自分をアピールした。
　真之は、あたなは正直な人間だといって気に入ってくれた。
　それからは、芳恵の心も解れて、思った以上に飲んでしまい、へべれけになった。
　飲んだ後は、何事もなく宿泊先のホテルに戻った。
　真之が独身である事は知っていたが、その時は、まさか十歳くらいも年の離れた真之と恋仲になるとは思ってもいなかった。

　学会が終わって、札幌に戻ってきてから、何度か真之から食事の誘いがあった。
　芳恵は、コネ作りと美味しい料理が食べられる、とばかりに誘いを断ることはなかった。
　だが、何度か会っている内に真之が自分を研究者としてではなく女として見ている事に気が付いた。
　しかし、全く嫌な気はしなかった。寧ろ嬉しかった。
　芳恵も真之に惹かれていたからだ。
　二人が、恋仲になるには時間はかからなかった。
　真之に誘われるがまま、芳恵は抱かれた。
　ベッドの上では、何も持たないただの男と女であった。
　互いに求め合い、情事のあとは愛を囁き合った…

　芳恵は喫茶店の席で、伊達メガネを一旦はずして、鼻の付け根を指で揉(も)んだ。
　変装のつもりで、黒縁の伊達メガネを掛けてきたが、慣れていないので、鼻の付け根が疲れた。
　壁掛けの振り子時計に目をやると、約束の時刻を越えていた。
　芳恵は苛々（イライラ）すると、思わず耳朶を触ってしまう。
　子供の頃からの癖だ。
　今はイヤリングをしていたので、耳朶と一緒にイヤリングを指で弄った。

　第７章　終了

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