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第４６章 帰還
芳恵の携帯が鳴った。
「もしもし、芳恵さん。大丈夫ですか？」
「うん、私は大丈夫。上手く逃げ出せたさ」
「それは良かった」
「それより、星くんは、大丈夫。今、どこさ？」
「支笏湖の湖上です。もう少しで丸駒温泉の湖畔沿いの露天風呂に着く所です」
「湖上って一体どういうことさ？」
「湖畔にあった小舟を拝借したんです。芳恵さんがタイミング良く発炎筒を焚いてくれたお陰で、何とか竹上を助け出すことができました。と言っても、彼は危険な状態です。すぐ病院へ連れて行かなければいけないので、救急車を呼んでおきました。それと、消防車も呼んでおきました」
「消防車を呼んだの星くんだったんだ」
「えぇ、芳恵さんに合図を出して直ぐに、連絡しておいたんです。そこで、芳恵さん、お願いがあるんです」
「何かしら？」
「これから、竹上を丸駒温泉の旅館へ運ぶんで、旅館のロビーで待っていてくれませんか」
「了解、お安い御用よ」
丸駒温泉は、支笏湖畔にある老舗温泉旅館だ。
秘湯として人気のある温泉で、湖岸から湧き出る源泉と湖水で温度調節した露天風呂が大人気だ。
底に砂利が敷かれていて、底から気泡と共に源泉が湧き上がっている。
温泉客たちは、星空を眺めながら露天風呂に入り、気泡が肌を上がってゆく感触を楽しんでいた。
真っ暗な湖水の方から人の声がした。
驚いて振り向くと、小さな舟に乗った青年が現れた。
「すいません。酔っ払いが、湖に落ちて、命が危うい状態なんです。すいませんが、上げるのを手伝ってもらえませんか」
温泉客たちは、濡れたタオルを腰に巻いて、みんなで協力して、ぐったりとしている竹上を抱え上げた。
星は、温泉客と協力して、竹上を旅館のロビーまで運んだ。
旅館の従業員や温泉客たちは、タオル一枚腰に巻いたままの裸の男達がロビーに現れたので、面食らった顔をしていた。
星は、従業員に事情を説明して、救急車が来るまで竹上をソファーの上に寝かせた。
「ねぇ、星くん。一体、どういうことなの？」
芳恵は、星に尋ねた。
「ウィスキーを無理矢理飲まされた後に、壊れた舟に乗せられて、湖に出されたんです。しかし、芳恵さんが、発炎筒をたいてくれたお陰で、二人の男は、慌てて別荘に戻りました。その隙に、近くにあった別の舟を出して、竹上を湖の上で助けてから、丸駒温泉に向ったんです」
「ウィスキーは吐かせたの？」
「舟の上で無理矢理吐かせましたが、既に多量のウィスキーを飲まされていたので、全部は無理でした」
「急性アルコール中毒の危険性があるわね」
「そうです。何とか意識を回復してくれると良いんですが…」
「竹上には死んでもらってっちゃ困るのよ。特許の盗用事件について、しっかり証言してもらわないといけないわ」
「そうですね。すいませんが、芳恵さん。救急車に付き添って病院まで行っもらえませんか？僕は、自分の車で向かいますから」
「分かったわ。話は変わるけど、あんたマニュアル車を運転んするのは冒険だったわ」
「そうか…うっかりしてました」
「２、３箇所、ガードレールに擦っちゃったけど、ごめんね」
「えー、本当ですか？」
「嘘よ、エンストは何回もしたけどね」
「それを聞いて安心しましたよ」
星は、胸を撫で下ろした。
「それはそうと、星くん、随分と疲れてるみたいね」
「さすがに草臥れましたね。月も雲に隠れて真っ暗だったし、何とか温泉旅館の灯りを頼りに、オールで漕ぎ続けました。腕や腰がくたくたですよ」
星は、大きく溜息を漏らした。
「ご苦労さん。それと、由美子ちゃんの件だけど、別荘の中を探してみたけどいなかったわ」
「そうでしょうね…」
星は、うな垂れた。
「そうでしょうねって、どういうことさ？」
「竹上を殺そうとした男が喋ってたのが聞こえたんです」
「何て言ったの？」
「由美子ちゃんは、三ツ橋が石狩湾に沈めたと言ってました」
「したら、由美子ちゃんはもう…」
「そういう事になりますね。残念ながら、少し遅かったようです」
「でも、信じられないわ。あの人の良い三ツ橋准教授が、人殺しをするなんて…しかも、幼い女の子を」芳恵は首を激しく振った。
「普段、おとなしい鼠でも、追い詰められれば猫を噛みますからね。僕も、信じたくありませんが、それが現実のようです。幸明くんとの約束は、守れませんでした」
星は肩を落とした。
清田家の人々には、何と報告すればいいのだろう。せっかく僕を信用してくれたのに、星は悔しい気持ちで一杯だった。
丸駒温泉に救急車が到着し救急隊員が、竹上を救急車に運んだ。
「したら、芳恵さん、お願いします」
「任せておいてよ、これでも一応、医師免許はもってるからね。救急治療なんて実習でやった以来だけど。まぁ、何とかするわ」
ドアが閉まると、救急車はサイレンを上げて走り去った。
星は病院へ直行しないで、まず、三ツ橋の別荘へ向かった。
林道に車を停めて、夜闇の中を、足音を忍ばせて別荘へと向かった。
別荘の明かりは消えていた。
星は別荘の周りを歩いて見たが人の気配はなかった。
また、ガレージにも車はなかった。
三ツ橋たちは犯罪をしている手前、消防の尋問に対して、誰かが発炎筒を仕掛けたとは言えないはずだ。
そんな事を言えば、警察が出動してくるのは分かりきっている。
おそらく、焚き火をしていたとか嘘を付いて、消防を追い帰したのだろう。
星は車に戻って病院へと向かった。
竹上が搬送された病院は、支笏湖から千歳の市街地へ向かう途中の蘭越(らんこし)にあった。
非常灯だけが付いて静まり返った待合室に、芳恵が一人でポツリと座っていた。
星が近付くと、足音に気付いた芳恵は振り向いた。
星は、芳恵の隣に座った。
「容態はどうですか？」
「あのまま、放置されていたら死んでいたわね。でも、適切な処置が出来て、血中のアルコール濃度も下がり始めたから大丈夫でしょう。回復が早ければ明日には意識が戻ると思うわ」
「したら、明日の朝、ここに来なければいけませんね」
「そうね。一応、夜勤の看護婦さんには、意識が戻ったら連絡してもらうようにお願いしておいたわ」
「ありがとうございます。したら、僕らも帰りますか？」
「したけど、明日早くに札幌からここに戻ってくるのは大変っしょ？それに、星くん、なまら疲れてる顔してわ」
「そんなに顔に出てますか…実は、朝から飯も食べずに捜査して、舟も漕いだんで、ヘトヘトなんです」
「札幌までの運転もゆるくないっしょ。そうだ、良い考えを思いついたさ。さっきの旅館に泊まらない？あそこだったら、近いし、温泉にも入って疲れ取れるしさ。明日の朝も、ここの病院まで直ぐ戻ってこれるっしょ？」
「したけど、部屋が空いてますかね。それに、温泉旅館なんでビジネスホテルと違ってシングルはないと思いますけど…」
「ちょっと確認してみるわ。旅館のロビーであんたを待ってる間に、パンフ貰っておいたのさ」
芳恵は電話を掛けた。
「もしもし、素泊まりでも良いんで、今夜、部屋は空いてますか？」
「和風の部屋が一つ空いてますよ。もし、2名様分であれば、キャンセルが出たので、お料理もご用意できますよ」
「ラッキー。それでお願いします」
「人数はお二人で宜しかったですか？」
「はい。名前は安浦芳恵です。急なお願いで、すいませんね。ありがとうございました」
芳恵は嬉々とした顔で微笑んだ。
「キャンセルで、１部屋空いてるんだって。しかも、料理も２人分余ってるから出せるって。ラッキーだね」
「でも、良いんですか？同じ部屋で…。」
「私は大丈夫よ。それとも、三十路前のオバサンと一緒の部屋じゃ不服なの？」
「いや、そういう意味じゃないんです」
「したら、私の言う事を聞きなさい。私はあなたの依頼人なのよ。宿泊代は、私が持ちます。仕事の出張費みたいなものね」
「札幌まで戻るのであれば千歳経由で行けば山道も少ないので大丈夫だと思います」
「疲れてる時は、交通量の多い道の方が事故りやすいのよ。私まで事故に巻き込まれるのは御免(ごめん)だわ。それに、竹上が急に意識を回復したらどうするのさ」
「そういわれると…」
星は、ポリポリと、頭を掻いた。
「したら、決まり。御飯食べて、温泉入って…」
そこまで言って、芳恵は恥ずかしくなった。
「そうですね、ゆっくり休んで、また明日頑張りましょう」
星は、人懐っこい笑顔を見せた。
「夜は頑張らないの？」
という言葉が芳恵の脳裏に浮かんで、自分は何を期待してるんだろうと少し恥ずかしくなった。
「私が悪い訳じゃないわ。前に大学の教え子と浮気した真之が悪いのよ。それに、１０年前の婚約者だか知らないけど、未だにに未練たらたらだし…私が星に魅かれたのは、心をつなぎ止めていない真之のせいだわ」
と開き直った。
第４６章 終了
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