アパートの前に自転車を止めて、夜空を見上げると、北斗七星が見えた。
　シュウから教えられたように、北斗七星を基点にして、星を辿っていくと、夫婦星の旦那さんと奥さんの星を見つけることができた。
　あの夜、春神の霞手が見えた駐輪場の奥の方へ、視線を移してみたが、何も見えなかった。ほっと胸を撫で下ろして、アパートの部屋へと向かった。
　部屋に入いると、スポーツバッグを床に放り投げて、直ぐ浴室へ向かった。

　浴室入口の横に設置されているボイラーのスイッチを付けた後、浴室の手前から手を伸ばして、シャワーの栓を捻った。浴槽に、熱湯の飛礫が当たり、白い湯気が濛々と立ち昇った。
　外套と下着を一気に脱ぎ捨てて、浴室に入った。
「しゃっけー」と思わず声をあげた。洗い場の床は冷え切っていた。
　すぐさまシャワーで温めていた浴槽に跳ね移り、頭からシャワーを浴びて、両手で思いっきり頭を掻き毟った。「グオー」と腹の底から大声を張り上げて、今日の嫌な出来事を、頭の中から振るい落すように、ひたすら頭を掻き毟った。

　シャワーから上がり、ドライヤーで髪を乾かし終えた頃に、ちょうど電話が来た。洋子からだった。
　僕は、夫婦星について話を始めた。
『夫婦星が、何処さ、あるが分がったよ』
「タゲ、偉いね。ちゃんと調べでけだんだ」
『実は、友達がら聞いだんだ。シュウっていう同じクラスの友達』
「へぇ、その人は星に詳しいんだね」
『うん。結構物知りで、いろんな事を知ってるんだ。あいつは、大したもんだ』
「例えば、どんた事？」
『えーと、例えば、白樺とか、熊とか』
「白樺とか、熊？何だか、マニアックだね」
『んだな、確かに、マニアックだな。まぁ、簡単に言うと、動植物とか自然が好きらしいよ』
「それは、素敵だね」
『ヨッコも自然が好きだから、ヨッコとは話が合うど思うよ。そう言えば、シュウが、ヨッコさ宜しくって言ってだよ』
「ヨッコさ？ヨッコの事を、シュウ君に話したの？」
『うん、この間、一緒に飲んだ時に話したんだ。その飲んだ帰りに、公園で夜空見ながら、夫婦星の場所を教えて貰ったんだ。先ず北斗七星を探してがら、その 尾っぽの曲がりを辿って行げば、オレンジ色した旦那さんの星があって、さらに辿って行げば、白い色の妻さんの星があるんだ。その二つが夫婦星なんだって』
「へぇ、夫婦星って、タゲの言った通り二つあるんだね。予想、当だったね」
『うん、まぁな』と受話器を握りつつ、胸を張った。
「夫婦星で思い出したばって、春神さまは、あの時見えたっきり、もう見えねぇべ？」
『うん、あの時、一回だけだ』
「それ聞いで安心した」
『何で、何回も見えれば、不味い事でもあるんだが？』
「何もねぇよ。気にしねぇで」
『そう言われれば気になるな』
「何もねって。ただ、タゲがまた怖がってしまえば、可哀想だなど思って‥」
『そんたに怖がってねぇよ。ちょっと気味悪がったがら、ヨッコさ聞いでみだまでだ。まっ、今思えば、あれはただの目の錯覚だな』
「えー、あの夜は、あんたにビビっでだくせに」
『うーん、確かに、ちょっとはビビっでだばって。まぁ、その話はもう良いよ。あんまり思い出せば、また寝つきが悪くなってしまう。所でヨッコの住んでる部屋ってアパートの何階だっけ？』
「３階だよ」
『ベランダはあるの？』
「うん、あるよ」
『んだば、今から、一緒にベランダがら、一緒に夫婦星見るべし』
　僕は、シュウのアイデアを頂戴して、札幌と東京から、一緒に同じ星を見ようとした。
「うん分がった、探してみるね。ちょこっと待って」
　受話器の向こうから、洋子がベランダの窓を開ける音が聞こえた。
「あー、駄目だ。空が霞んで、星が全然みえねぇよ。そっちは見える？」
　電話機は、ワイヤレスでは無かったので、本体を手に持って、電話線と電源コードを伸ばせるだけ伸ばして、ベランダまで持って行った。
　夫婦星の位置を、さっき見て、覚えていたので、簡単にに見つける事ができた。
『こっちは、見えるよ』
「東京では、今夜は駄目みたいだね。また、天気の良い夜に探してみるよ」
『見えだ時は、絶対に電話して』
「どうしたの、タゲ。随分と意気込んでるね」
『んだって、ヨッコと一緒に、夫婦星を見てぇんだもん』
「ありがとう。嬉しいよ。んでも、タゲって、そんたにロマンティストだっけ？何だがちょっと、タゲっぽくねぇな」
『そう言われれば、ちょっと照れくせぇばって、一緒に夫婦星を見てぇんだもん‥』
「急に、星さ興味を持った所を見ると、そのシュウっていう友達の影響がな？」
『いや、そんな事はねぇよ。まぁ、少しは、あるかも知れねぇな。そうそう、そう言えば、シュウの彼女もヨウコって言うんだって』
「へぇ、んだば、きっと名前が良いから、シュウ君の彼女も可愛いんだべなぁ」
　洋子は、受話器の向こうで、おどけて笑った。
『シュウが言うには、結構可愛いらしいよ。んでも、ヨッコには敵わねぇよ』
「あらっ、嬉しいこと言っちゃって。タゲ、札幌さ行ってがら、お世辞が上手ぐなったんでねぇの？」
『いや、いや、そんた事ねぇよ。真実を喋ったまでだ』
「真実だなんて。やっぱり、お世辞が上手になってる。それも誰かの影響かな？」
『何も、そんた事はねぇよ』
　洋子に図星を衝かれた僕は、動揺を隠して言った。

「んふふっ、タゲ、むきになってる。まぁ、苛めるのは、ここまでにしておくか。そうそう、ヨッコね、今日からバイト始めだんだ」
『バイトか、そう言えば伯父さんの喫茶店で働くって言ってだな？』
「んだ。結構、繁盛してで、忙しかったよ」
『どんな感じの喫茶店？』
「商店街の通りにあるビルの３階で、内装は洒落た木造りなんんだ。それでね、ずっとジャズが流してあるの。何か大人の隠れ家って感じの喫茶店。伯父さんの作った珈琲を飲ませてもらたけど、わったり美味しかったよ」
『珈琲か、お茶とか紅茶とかはないの？』
「伯父さんの喫茶店は、珈琲の専門店なんだ」
『えー、珈琲しかねぇの？』
「タゲは、お子ちゃまだから、珈琲が苦手だったね」
『だって、わったり苦いんだもん』
「まぁ、好き嫌いは人によりけりだがら、しょうがないね」
『んだ、しょうがね』
　僕は、受話器に向って、大きく頷いた。
「所で、タゲは、バイトしねぇの？」
『バイトかぁ。取り敢えず、部活が落ち着いてから探そうかなと思ってら』
「んだね、部活大変そうだもんね。それで、バスケの調子はどうだ？」
『バスケの調子か…。あんまし芳しくねぇな…』
「何か急に、声に元気がねぐなったよ。何か失敗でもしたの？」
『はー、失敗する以前の問題だよ』と首を振った。
「どう言う事？」
『大会間近だがら、１年目は、最初に、少しだげしか練習できねぇし。おまけに、苦手な筋トレをやらされて、俺だけノルマできなかったし。』
「しょうがねぇべ。タゲは、入部したばっかりなんだから」
『同じ１年目でも露渕っていう、わったり上手い奴がいるんだ。そいつは、紅白戦とかにも抜擢されて、活躍してるんだ』
「タゲは、最初から試合に出れるど思ってだの？」
『いや、そんたに甘ぐはねぇって思ってだよ。現に、最初は、フットワークだけで死にそうになってだし。んでも今は、体も慣れできて、大分、動けるようになってきたんだ』
「始めはそれで十分なんでねぇの？」
『んでも、露渕は、先輩相手に互角以上に活躍してらんだ。兎に角、シュートが上手いんだよ。どんな体勢からでも、決めるんだ。本当に、凄げぇんだ』
「それは、その人が上手いからだべ。他人と比べても仕方ねぇよ。タゲも頑張って練習すれば、その人みたいに、紅白戦にも出れるようになるよ」
『当分は、無理だど思うな…というか、持って生まれた才能が違うような気がするよ』
「タゲだって頑張れば、出来るよ」
『出来ねぇよ』と投げやりに言った。
「なして、頑張りもしないうちから、そんた事言うの？」
『頑張ったって、出来る事には限界があるよ。ヨッコは、実際に露渕のプレイを見でねぇがら、そんな勝手な事が言えるんだ』と、興奮して語気を強めた。
「何よ、せっかくタゲを励ましてるのに。何で、こっちが怒られなきゃなんねぇの？そんた事言うんだったら、勝手に落ち込んでればいいべっしゃ」と不貞腐れて言った。
　吐き出し口のなかった僕の苛立ちの感情が、いつの間にか洋子に向けられていた。
　彼女に叱られたことで、僕は、その事にようやく気が付いた。
『ごめん。我が悪がった』
「本当に悪いと思ってらが？」
『うん、思ってらよ。ごめん、何だが自分が、わったり下手くそに思えで、イライラしてだんだ。許してけれ』
「自分が下手だと思って落ち込む気持ちも分かるばって、落ち込んでてもしょうがねぇべ。その人が上手いのは、努力したからだべ。最初っから上手い人なんていねぇよ」
『んだな。確かに露渕も、受験勉強中もずっと毎日、１日１００本シュートを入れるまで練習したって、喋ってらっけな』
「上手な人ほど、個人練習してるんだよ。タゲは、そういう練習したことある？」
『いや、ねぇな。昼休みに、友達と一緒にバスケして遊んでだぐらいだな』
「それは、遊びだべ」
『まぁ、遊びって言われれば遊びだばって…。ヨッコは、秘密特訓みたいな練習をした事あるの？』
「あるよ。高校の時、毎朝早く体育館さ行って、練習してだよ」
『へぇ、それは初耳だな。高校の時はそんた練習してるって、一言も言ってねがったのに』
「だって、人さ喋ったら、秘密特訓には、ならねぇべぇ。それに、べらべら話すのって、何だか、恥かしいっていうのもあるし」
『んだな、それはあるな』
「周りの人より上手くなろうと思ったら、毎日、こつこつ練習して、一歩一歩前進するしか方法はねぇど思うよ。ヨッコも、高校での一番のライバルは、芹奈だったがら、追い付こうど思って、必死に頑張ったんだ」
『まぁ、芹奈は中学の時には。全中バスケにも出たからな。芹奈は、小さい頃から、でっかったからな。我も中三でようやく背が追い付いだしな』
「確かに何ぼ練習しても、芹奈よりは、おっきくなれねぇよ。んでも、頑張って練習したがら、高校総体の時には、シュートに関しては、ヨッコの方が巧いっていう自信は持つことが出来たよ。んだがら、タゲも、明日から秘密の練習を、やってみれば」
『んだな、明日がら、やってみるが』
「その調子だ。タゲ、頑張れよ。んだば、そろそろ電話切るね。またね。スパコイナイ・ノーチ」
『スパコイナイ・ノーチ。』
　僕らは、ロシア語でお休みなさいの挨拶を交して電話を切った。

第５０章　終了