第４３章 ５分前行動の謎
土曜、日曜と連夜に渡って、大酒を食らったせいか、月曜の朝は、無数のナメクジが脳の中を這いずり回っているような気分だった。
体もだるく、朝飯を食べる気がしなかった。飯の代わりに、３杯の水を立て続けに飲んだ。腹の足しにはならなかったが、ナメクジを、一匹ぐらい脳の中から流し出せたようだ。
だーらだらと着替えてから、講義に向かうべく、部屋を出た。
先週、買ったばかりの自転車に跨って、大学へと向かった。
大気は乾燥していて、埃っぽかった。
車道と歩道を区切っている縁石の横には、スパイクタイヤの粉塵が吹き溜まっていた。
車が走り抜ける度に、アスファルトの削り滓が、鼻穴や眼中に飛び込んできた。
一刻も早く逃れたかったので、身を屈めて、自転車を飛ばした。
北１８条門からキャンパスに入り、北棟校舎の駐輪場に自転車を停めた。
激チャリをしたせいで、汗ばんでいた。
袖口を捲って、時計を見た。徒歩ではいつも２０分以上掛かっている通学が、５分で済んだ。
予想以上に早く到着する事が出来て、嬉しかった。
宿酔のナメクジに舐められながらも、自分にしては、珍しく５分前行動が出来たなと悦に入りながら歩いた。
群青色に塗られた鉄枠の重い玄関の扉を、力を込めて引き、一畳間ほどの風の踊り場に入った。中に入ると、その奥にあった自動扉が左右に開いた。
廊下を歩き、講義室の扉の前までくると、教室の中から講師の声や物音が聞こえてきた。前の講義がまだ終わっていないようだった。早く講義室に着いた所までは良かったが、中には入れなかった。
腕時計を見ると、５分どころか、１０分も、早く来過ぎたようだった。こんな事なら、先に生協の本屋に行ってから講義室にくれば良かった。
小中学生の頃は、始業の鐘が為ってから教室に入り、「５分前行動をしろ」と、先生に説教されたものだった。
その時は、「でも何故、１０分でもなく、５分前なんだろう？」と謎に思っていたが、漸く納得することができた。１０分前行動では、早過ぎて、待っている時間がもったいない。
壁を背凭れにしてしゃがみ込み、そのまま俯いて、時が過ぎるのを待った。
暫らくすると、壁越しに椅子を動かす音が聞こえてきた。
学生達が廊下に出てきて、雑談する声や足音で騒がしくなった。
僕は立ち上がり、講義室に入ろうとした所で、ちょうどよく長沼に遇った。
「おはよう」とお互いに軽い挨拶を交わしてから、一緒に中に入った。
「どこら辺に座ろうかい」
『我は、あっちの窓側の方がいいな』と、前方の窓側を指差した。
長沼と僕は、窓際に、前後に並んで座った。
長沼は着席すると、半身になって、僕の方を向いた。
「今朝の道路は粉塵が酷かったね」
『んだな。チャリンコ乗ってでも、すんげぇ息苦しいがった』
「ほんと、酷いっしょ、札幌の粉塵は」
長沼は、スパイクタイヤの粉塵に対する不満を諄々と続けた。今までの１８年間の人生で、どれほどスパイクタイヤの粉塵に苦しめられてきたたかと云う事
を、熱を込めて述べた。粉塵が舞う春という季節は大嫌いだ。規制をしてこなかった行政当局も責めていた。もし自分が官僚になったら、自動車業界の横暴は許
さないと息巻いていたが、漸く今年の冬から、遅ればせながら、規制が施行されるとぼやきつつも、喜んでいた。
その後も、粉塵に対する怒りを延々と捲し立てていた。
いつまで続くのかと、少し嫌気を覚え始めた頃、長沼の視線が、僕の後ろに移った。
振り返ると、シュウと筑紫が見えた。
シュウが、僕らに気付くと、手を挙げた。
僕が手を挙げてえると、歩み寄って来た。
「おはよう。二人とも昨日は良く寝れたかい？」
『よく寝れだよ。んでも、慣れねぇ酒のせいで、今朝は、だるいな。シュウこそ、いっぺ飲んでだけど、大丈夫だが？』
「ああ、大丈夫だよ。あのくらいでは、潰れねぇだよ。長沼はどうだい？」
「なまら元気さ。僕も、あのぐらいは余裕さ」
「長沼も、なかなか酒豪だな。また飲みに行こうぜ」
「そうだね。あそこはシュウの言う通り、安いし美味いし、なかなか良い店だったね」
「そうしたら今度は四人で飲みに行くだな」
シュウの誘いに対して、長沼は即答せずに、沈黙した。
誰も、その沈黙を無理に破ろうとはしなかった。
長沼の隣に筑紫が座り、僕の隣にシュウが座った。
僕は、二人が再び、口合戦の火蓋を切るのではないかと、気が気ではなかった。
筑紫が、長沼に言った。
「先週は、いろいろと言い過ぎた。悪かったな」
長沼は、その言葉を聞いて、真一文字に結んでいた口を、少し綻ばせた。
「別に、僕はそんなに気にしてないさ」と、窓の外を見ながら、素っ気無く答えて、再び口を噤んだ。
やっぱり駄目かと、僕は心の中で、溜息を漏らした。
長沼は、筑紫の方を向き直して言った。
「僕も少し言い過ぎた所があったからさ、そこは謝るよ。もし、君の気に障るような事を言っていたとしたら、悪かったな」
「まぁ、お互い大人気かったな」と言った筑紫が言った。
長沼は、照れ笑いを浮かべながら肯いた。
筑紫は、僕とシュウに向かって、親指を立てて微笑んだ。
僕は、ほっと胸を撫で下ろした。
その後、黒縁メガネの教授が入ってきて、数学の講義が始まった。
第４３章 終了
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