第３４章 大樽のリス
「大樽」があると教えられたストリートは、車通りも少なく静かだった。
街灯も控え目で、仄かに道を照らしているだけだったので、店が見つけ難いかなと思ったが、簡単に見つけることができた。何故なら、電柱の周りに、たくさんの自転車が停められていたからだ。
僕は、転車の溜まり場に、自分の自転車を潜り込ませた。
街灯に照らされた「大樽」の外観は漆黒で、小洒落た感じの建物だった。
一見すると、気の利いたバーのようだった。
店の入口には、年輪模様の看板が掲げられていた。
リスが樽の上に乗っかり、大きなジョッキでビールを呷っていた。
僕は絵を見上げながら、こいつが、シュウが言っていたリスかと思った。
リスは上機嫌で、僕を歓迎してくれているように思えた。
腕時計を一瞥すると、シュウの電話から、既に１時間経っていた。
入口の扉を押しながらリスの下を過ぎると、店内の賑やかな声が聞こえてきた。
僕は、騒々しく酒を飲み交している客の間を抜け、奥へ奥へと進んで行った。
シュウが、僕に気付いて手を挙げた。
遅くなってしまった事を詫びた。
椅子に腰掛けた瞬間、隣で飲んでいた筑紫が、肩を組んで来た。
筑紫の顔が、間近に迫って、酒臭い息が鼻孔に突き刺さった。
「タケ、随分と遅かったじゃん。俺は、お前が来るのを、首をズーっと、ズーっと長くして待っていたのにさ。遅いんだよ、全く。お前は、俺と一緒に飲むのが、そんなに嫌なのか」
眼前に迫った筑紫の双眸は血走っていた。
『なんも、嫌でねぇよ』
「嘘付け。こんなに遅れて来てよ。もう２時間以上経っているじゃんかよう。俺と飲むのが嫌だったから、わざと遅れて来たのだろう」
と、僕の肩を握る筑紫の掌に力が篭もった。肩が少し痛んだ。
『２時間も遅れでねぇべ。シュウから電話貰ってがら、まだ、１時間しか経ってねぇよ』
『馬鹿野郎、俺達がここ来てからは、もう２時間以上経っているんだよ』
『遅れで、御免。それは謝る。んだばって、部屋がら出ようどしっきゃ、彼女がら電話来たんだ。その後に直ぐ、母さんがらも電話来たっために、遅ぐなってしまったんだ。んだがら、遅ぐなってしまったのは、業とでねんだって』
僕は、遅れた経緯を説明した。
「彼女から電話ねぇ…タケは良いよな、彼女がいてさ。俺なんか、ズーっと振られっぱなしなのにさ。それに、何時間も話し続けるなんて、お熱いよなぁ。羨ましいよなぁ。何を、そーんなに話す事があるんだよ」
『まぁ、大した事は話してねぇよ。昨日あった事どか、今日あった事、明日何するどか、桜が咲いたとか散ったとか、そんた話だ。その後、母さんがらも電話が来たために、更に遅れでしまたんだ』
僕は、再び同じような弁解をした。
「じゃ、何で２時間も遅れて来るのだよ。やっぱり、俺と一緒に飲むのが嫌だったのだろう。それにお前、彼女と３０分も話をして、お袋さんとは、１０分しか話さないとは何事だ。お袋さんは、お前の事を心配して電話掛けて来てくれたんだろうが」
『まぁ、この年になって、そんたに母さんと話す事なんてねぇべ。電話で話してでも、俺は返事してるぐれぇのもんだしな』
僕は、諄々と絡む筑紫が鵜雑ったくなり、少し冷たい口調で話した。
「何ぃ、この野郎。何だ、その言い方は。お前は、お袋さんの気持ちが分らないのか、この馬鹿者が」
筑紫の掌が、一段と力強く、肩を握った。
『痛でぇよ。筑紫。おい、肩痛でぇよ。離せ！』
僕は、抵抗して肩を揺すった。
見兼ねたシュウが、言った。
「おい、筑紫。タケが痛がってるだ。そんなに絡んじゃいけねぇよ。お前が待ち侘びてたのは分かるけんど、タケにも、いろいろと都合があったんだし、遅れて来たのは、しょうがねぇだ。それに、連絡が遅くなったのに、態々、来てくれんたんだからさ」
諭された筑紫は、憮然としながらも、僕の肩から手を外した。
筑紫は、僕の肩から外した右手を、手持ち無沙汰そうにテーブルの上を這わせてから、その指をグラスに入れて、氷をゆっくりと回し始めた。そして、透明なグラスの中で、煌きながら回遊する氷を暫らく眺めていた。
まるで氷に向かって話すような素振りで言った。
「ふん。どうせ、お前らも長沼みたいに、俺を馬鹿にしているのだろう。俺の意見なんて、酔っ払いの戯言くらいにしか思っちゃいないんだろうよ」と、拗ねた顔で呟いた。
筑紫はグラスを強く握った。
手の甲には、指の筋と血管が隆々と浮き上がっていて、微かに震えているようだった。
それから、残っていた酒を一気に飲み干した。
「筑紫、もうそれぐらいにしておけよ」
シュウが宥めるように言った。
「俺は、全然、大丈夫だ。まだまだ行けるぜ。でもその前に、ちょっと、トイレに言って来る。シュウ、もう一杯、作っておいてくれ」
筑紫は、グラスをシュウに差し出してから、席を発った。
『筑紫、かなり酔っ払ってらな。もう、大分飲んだんだが？』
「焼酎水割りで、グラス数杯なんだけどな。すぐ酔っ払っちゃてさ。タケも来た早々、悪いな。まぁ、これ以上は飲ませないようにするからさ」
シュウは、筑紫のグラスに氷を入れ、水だけを付け足した。
「タケは何、飲む？」
『シュウと同じので良いよ。んでも、薄く作って。俺、酒はあんまり強くねぇがら』
シュウは、グラスに氷を入れ、ボトルから焼酎を少し注いだ。
そして、水で割り、マドラーで撹拌してから、一切れの檸檬を水面に乗っけた。
「はいどーぞ。じゃ、乾杯しようか」
『筑紫がまだ戻って来てねぇばって、良いんだが』
「良いよ。あいつ、さっきから何度もトイレ行ってんだ。その度、遅いからさ。先に乾杯しちまおうぜ。あいつが戻って来た時に、また改めてすればいいからさ、取り敢えず、乾杯しちまおう」
と、グラスを掲げてから、
「じゃあ、何に乾杯すかい？」
『酔っ払って、本地（ほんじ）ねぇぐなった筑紫にってのは、どうだべ？』
「本地ねぇ？タケって、結構、訛ってるけんど、時々、意味不明な言葉使うよな」
『本地ねぇってのは、何って言えば良いんだべな。うーん、さっきの筑紫みでぇな状態だな。正気を無くしたと云うか、意味不明って云うか。うーん、常軌を逸したっていう感じの意味がな』
「ふーん。つう事は、へべれけに酔っ払った筑紫に乾杯しようっつう事か？」
『んだ、んだ』
『それは、ちょっと却下だな。その乾杯はさ、あいつが戻ってきた時の為に取っておいてやろう」
『んだば、何さ乾杯する？』
「じゃ、タケの彼女に乾杯つうのはどうだい？」
『俺の彼女に？別に良いばって。なして、俺の彼女に』
「俺が、飲みに誘っちまったせいで、お二人さんの電話の時間を短くしちまったからさぁ。せめてものお詫びだ。それに、今日ここで、彼女さんに乾杯したっつうことをさ、タケが電話で彼女さんに伝えておいて頂けると、彼女さんの俺に対する好感度も良くなるっつもんだ」
『シュウって、見掛げに寄らず、ながながの戦略家だな』
「戦略家だなんて人聞きが悪いだに。せめてさ、気が利くって言ってくれや」と、口を大きく開けて笑った。
「所で、彼女さんの名前は何っつうだ？」
『ヨウコだ』
「へー、ヨウコかい。これまた奇遇だね。実は、俺の彼女もヨウコって言うんだ。もしかしたら、字も同じかも知れねぇな。タケの彼女は、どういう字？」
『太平洋のヨウさ、子供の子だな。』
「じゃ、漢字は違うな。うちのは、芙蓉のヨウに子供の子だ。」
『フヨウって何？』
「芙蓉っつうのは、花の名前でさ、よく美人に喩えられる花だな」
『へぇ、シュウって花に詳しいんだ』
「そんなの詳しい訳じゃねぇだよ。今のは、彼女の受け売りなんだけんどな。」
『そっか、彼女の受け売りか。んでも美人に例えられる花の名前を持ってるんだば、さぞかし、美人なんだべな』
「それ程でもねぇだよ。でもまぁ、俺が言うのも何だけど、結構可愛いよ」
シュウは、照れ笑いを浮かべた。
彼のその表情を見て、シュウにも可愛い所があるなと思った。
『んだば、その美人の蓉子さんに、乾杯するべ』
「おっ、タケもなかなか気が利くじゃねぇかい。俺も彼女に伝えておくよ。じゃぁ、お互いのヨウコに。乾杯」
『乾杯』
二つのガラスの交歓音が、僕とシュウの間に響いた。
第３４章 終了
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