第３３章 CALL
お好み焼き屋での、ささやかな晩餐会が終わり、店を出た。
僕は、そそくさと一人でアパートに帰宅した。
部屋で一人っきりになっても、心の底に沈殿した芥は拭い去ることはできなかった。寧ろ、孤独になったことで、芥は、心の底によりべっとりと沈積した。何
を考えても、悪い方へ悪い方へと思考が流れた。いくら考え込んでも、気分は沈む一方だったので、気分転換の為に、入浴する事にした。
アパートの風呂は、ユニットバスだったので、専らシャワーを浴びるだけだったが、その夜は、浴槽に湯を張った。
湯船に浸かるのは、アパートに引っ越してきてから初めてだった。
蛇口から出る湯に手を当てて、水温を確かめながら、バルブを調節した。
お湯を落としている間、居間に戻って絨毯に寝転んだ。
天井を見つめていると、今日の試合の情景が頭を過ぎった。
目の前にはリングがあり、遮る人は誰もいない。
簡単な、本当に、物凄く簡単なシュートだった。
しかし、跳んだ瞬間に足が攣り、リングは視界から消えた。
気が付くと、近付いてくる人のバッシュが見えた。
やる瀬ない思いから、幾度となく溜息が洩れた。
湯船の溜まり具合と、湯加減を確認してから、服を脱ぎ捨てて浴室に入った。
湯船が狭いのは、予め分かっていたことだったが、実際に浸かってみて、その狭さを改めて実感した。
腰を曲げて体育座りのような姿勢で湯船の中に収まった。
手足を思いっきり伸ばせない、という難点はあったが、お湯にのんびりと浸かっていると、深い溜息が漏れた。
何も考えずに呆けたように、まったりと浸かっていた。
のんびりと、ぼんやりと、湯浴みをしていると、澱固まっていた心芥も少しづつ流れ去り、幾分、和やかな気持ちになることができた。
入浴後、鏡の前に立ち、ドライヤーで髪を乾かした。
僕の髪質は、とても細いので、乾かす時間は短くて済む。
癖のないサラサラとした髪は好きだったが、髪の量が少ない事が気になっていた。
他人と比べて髪の毛が少ないのは、子供の頃からで、最近になって減った訳ではなかった。
しかし、自分の父親の頭を鑑みると、遺伝子的に禿げ頭になる素質は十二分に持ち合わせているので、髪の毛に対して神経質になってしまう。
鏡に顔を近づけて、前髪を軽く上に引っ張りながら、生え際を念入りに眺めていると、電話が鳴った。
洋子からな？と思い、電話へ向かった。
『もしもし、倉内です』
「もしもし、ヤスオだけど」
『ヤスオ？』
ヤスオという名前を聞いても誰だか良く分からなかった。
中学の頃、何とか柳谷泰雄という同級生が居たような気はするが、別段、仲が良かった訳でもないし、中学卒業後は、全く会ったこともなかった。
『すいませんが、どちらさんだすか？』
「安尾シュウです。今晩は。」
『あっ、シュウだが。ヤスオって言うもんだがら、誰だが分がらねがったよ。下の名前が、ヤスオっていう人だがど思ったよ。それにしても、周りが、やげに騒がしいな。何所がら電話掛げでらの』
「今、居酒屋の公衆電話から掛けてんだ。所でさ、倉内、今晩暇じゃないかい」
『特に予定はねぇがら、暇と言えば暇だな』
「今さ、筑紫も一緒に来てんだけど、倉内もこれから来てくんねぇかい。長沼と筑紫のいざこざの事もあるしさ、お互い腹割って話した方が良いと思うからさ。倉内が、隣に居て貰えると助かるんだ」
僕は躊躇した。風呂から上がったばっかりで、寒い外に出て行くのが面倒だったし、何より長沼と筑紫の喧嘩に首を突っ込むのが嫌だった。
『どうすべがな、風呂から上がったばっかりだし』
「遅れたって良いからさ、何とか来てくれよ。頼むよ」
本当は『頼まれても困る』と言いたかった。
喧嘩をしたのなら、当事者間で話を付ければ良いことだと思った。
それに、正直言って、大学で知り合ったばかりの人に、そこまでする義理はないと思った。
「お願いだ。俺一人だと、手に負えないかも知れねぇからさ」
僕は、一旦、受話器を口元から話してから、長く息を吐いた。
『うん、分がった。行ぐよ。んでも、たった今、風呂がら上がったばっかりだがら、直ぐには行げねぇよ』
「ありがとう。急に誘って悪いな。昼に連絡取ろうと思って電話したんだけんど、部屋に居なかったもんでさ」
『今日は朝から、出掛けでだんだ。んで、店の場所は何所？』
「北２０条の[大樽]っていう居酒屋なんだけど、知ってるかい？」
『良ぐ分がらねぇな。何が目印になる物はねぇの？』
「北大通沿いに、白い洋館の喫茶店があるんだけんど、その喫茶店は知ってる？」
『うん、その白い喫茶店は分がるよ』
「その喫茶店のある交差点から、東に２丁ぐらい進んで行くと、[大樽]っていう居酒屋があるから。小粋な感じの黒塗りの建物で、入口の上には、樽と栗鼠
（リス）が描かれた看板があるから、それが目印だね。多分、見れば直ぐ分かると思うよ。俺らは、１階の一番奥の席で飲んでるからさ」
『うん、分がったよ。１５分ぐらいは掛かるど思う』
「ＯＫ。じゃ、待ってるだよ」
受話器を置いた後、再び髪を乾かしてから、新しい服に着替えた。
準備を終え、部屋を出ようとした時、電話が鳴った。
シュウからの催促の電話かなと思った。
玄関から引き返して、電話に出ると、洋子からだった。
会話の内容は、お互いの日常の出来事についてだったが、これから飲みに行くからと、無下に切る訳にも行かず、取り留め無く話を続けているうちに、３０分ほど時間が経ってしまった。
シュウから遅れても良いからとお墨付きを貰っていたとは言え、これ以上遅れるのは、流石に申し訳ないと思い、友達との約束があるからと、洋子に謝ってから電話を切った。
約束した時間よりも、かなり遅くなってしまった。
急いで部屋を出ようと、玄関で靴を履いている最中に、また電話が鳴った。
今度こそ、シュウからの催促だろうなと思い、部屋に戻った。
電話は、母からだった。
母からの電話は久しぶりだったので、これまた、無下に切る訳にもいかなかった。
親元を離れての一人暮らしなので、母はあれこれと、質問を浴びせてきた。
札幌は寒いから、風邪はひいてないか？
ちゃんとご飯を炊いて、料理をしているの？
都会の生活にはもう慣れたの？
都会の水は、塩素臭くって飲めないのでしょ？
友達は、できたの？
一人寂しく暮らしてはいないか？
大学の講義に、ちゃんと出席しているの？
変な勧誘に引っ掛かっていないか？
彼女とはちゃんと連絡取ってるの？
ホームシックに罹っていない？
母が心配してくれているのは重々承知していたが、余りにも、あれやこれやと根掘り葉掘りと聞かれたので、途中から返答するのさえ面倒臭くなってしまい、御座なりな返事になった。
体の調子は問題ないし、札幌の水も不味くない。
友達も出来たし、講義にもサボらずに出ている。
まだ、都会に慣れたとは言えないが、ホームシックの寂しさはない。
洋子とも連絡を取り合っている。だから大丈夫、心配しなくてもいいと、母に話しても、やはり心配なのか、足りないものは無いかとか、何か送って欲しい物は無いかと聞いてきた。
特に実家から送って欲しいものは無かったが、何にもいらないと返答すると、また要らぬ心配をして、母の話が長くなると思ったので、「秋田のお米を送って欲しい」と言った。
これから、友達との約束があるからと言おうしたが、また根掘り葉掘り聞かれるのも面倒だなと思い、話さないでおいた。
母は、最後に、僕からも、もっと電話をよこすように、と言って電話を切った。
時計を見ると、更に１０分以上過ぎていた。
僕は、急いで玄関に向かった。靴紐を結びながら、２度ある事は、３度ある？と心配になったが、それは杞憂に終わった。
第３３章 終了
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