第３０章 憧れの人
体育館の入口の重い鉄扉を押し開けて玄関に入ると、コートからバッシュの鳴る音が聴こえてきた。
その音を聞いた途端、心が躍り、バスケットを早くやりたくて、うずうずした。
鉄扉を開けてコートに入ると、女子部が練習をしていた。
男子部員は、まだ誰もいなかった。
僕は、体育館の壁際に荷物を置いてから、着替えるため、隣の用具室に向った。
体操部が、すでに体操器械を運び出していたので、用具室は伽藍としていた。
床は、滑り止めの石灰の粉が飛散し、白くなっていた。
着替え終わってから、コート外の壁際でストレッチを始めた。
筋肉を伸ばしたり、関節を曲げたりして、体を解していると、おもむろに、げっぷが出た。
すると、カレニーナで飲んだロシアンティーの風味が、強烈に口内に漂った。
ストレッチをしながら、女子部の練習を眺めていると、オールコートの５対５、つまり紅白戦が始まった。
女子部のレベルはどれくらいのものなのだろう、と興味を持って試合を観た。
観戦する前は、たいして上手くはないだろうと高を括っていた。
ところが、想像以上にレベルが高かった。
精度の高いパスとキャッチ。キープ力のあるドリブル。スピードと切れのあるカットイン。美しいフォームのシュート。
選手全体の個人能力が物凄く高かったので、正直、驚嘆した。
試合に出ていた選手達の殆んどが、僕よりも上手だった。
その個人能力の高さに加えて、”ケミストリー”の優れたオフェンスと、激しいディフェンスを展開していた。
バスケットでは、チームプレーの質が高い時に、”ケミストリー”が優れていると言う。
ケミストリーというのは、化学や調和という意味だ。
化学は、様々な原子と原子の組み合わせにより生じる分子の新たな性質を探求する学問だ。
バスケットでのケミストリーを視覚的に捉えると、個々の選手が、原子１個、選手の組み合わせを、分子とイメージすると分かりやすい。
様々な個性を持つ選手の組み合わせにより、チームケミストリーは、高まりもするし低くもなる。
つまり、チームプレーの練習の目的は、スターティングメンバー５人だけでなく、交代要員も含めたケミストリーを磨くことにある。
女子部の紅白戦で、際立って巧い選手がいた。
身長は、１７５㎝ぐらいと女子としては長身ながら、しなやかな身のこなしで、巧みなドリブルを見せていた。
切れ味鋭いカットインでディフェンスを抜き去り、打点の高いジャンプシュートを放っていた。
ダブルチームの激しいディフェンスもかわして、３点シュートを、何度も決めていたのは圧巻だった。
更に、プレイだけでなく、スッキリとした目鼻立ちの顔が可愛らしく、僕の心を魅了した。
彼女を、より魅力的に見せていたのは、バスケットを思いっきり楽しんで事だった。
プレイしている時の表情は真剣で、シュートを狙う時の眼光は獲物を狙う獣のように鋭く、怖さを感じるくらいだった。
その一方で、シュートを決めた後に零れる笑顔や、失敗をした時に見せる、舌を唇から少し出す仕草がとても可愛らしかった。
紅白戦で、ボールが出て、僕の所に転がってきたので、ボールを拾い上げると、その彼女がボールを受け取りに来た。
僕は心が高鳴り、緊張した。
ボールを手渡す際、ドキドキしていたが、
『お上手だすな』と一言だけ言葉を発する事ができた。
「ありがとう」
彼女は、軽い会釈をして、ボールを受け取った。
その瞬間、目が合った。
彼女は僕の瞳を覗き込むように、じっと見詰めた。
その時、僕の心臓があばらの下で暴れ回り、頭から湯気が出ているのではないかと思うくらい顔が熱くなった。
彼女は、くすっと笑い、コートに戻って行った。
僕は、ストレッチをするのも忘れて、彼女の姿をずっと追っていた。
紅白戦が終わった時には、僕は彼女の熱狂的なファンになっていた。
女子部の紅白戦が終わってから、少しして、富田キャプテンが、体育館に入って来た。
「おう、倉内、今日は早いじゃないか。気合が入ってるな。土曜の一番乗りの座を奪われたのは久しぶりだよ」
『すいません。昼飯の後に、何もする事がねがったんだすよ。んだがら、取り敢えず、体育館さ来たんだす』
「謝る事なんか無いさ。これからも、一番乗りして来てくれよ」
『はい、頑張るっす』
「シュート練習していたのかい？」
『女子が、紅白戦やってだんで見でました。かなり巧いっすね。北海道では、どのぐらいのレベルなんだすか？』
「女バスは、強いよ。ここ数年、、インカレ出場も果たしている強豪だよ。今年もインカレに出られるくらいの実力はあるね。ちなみに、男バスの方は、ここ数年は、エリート８止まりだね。でも、今年そは、何とかファイナル４に出るのが目標だね」
『所で、ファイナル４とか、エリート８って、ベスト４とか８って云う意味だすか？』
「そうそう、全米大学バスケットの言い方を真似て、俺らも言ってるんさ。倉内は、聞いた事ないかい？」
『すいません。初耳だす』
「知らないからって何も悪い訳じゃないさ。じゃぁ今度、全米大学バスケットのビデオを貸してあげるよ。すんごく面白いし、ためになるからさ」
『ありがとうございます。し訳ねっす』
「擦り切れるくらい見て、上達してくれよ」
『はい、いっぺ見せでもらうっす。所で、富田キャプテン。女バスの人で、ショートカットの背の高い人で、３ポイントをバカスカ決める人がいるすべ。その人の名前は何て言うんだすか？』
「多分、トウコの事かな。アイツのことっしょ」
僕が、ファンになった彼女を指差した。
『んだす。あの人だす』
「倉内、さてはトウコに惚れてしまったな」
『いや、なもだす。ただ、あの人が、ずば抜げで巧かったんだすよ。それで、何って人がなど思って、聞いだんだすよ。正直などごろ、あの人のバスケットには惚れだすな。いゃー、魂消だっす』
「あいつのバスケットには、見る者を惹き付ける力があるね。顔も結構、可愛いしね。俺も、初めてあいつを観た時は、驚いたよ。去年の全道大会では、新人王と得点王のタイトルを取ったからねぇ」
『トウコさんって、凄い人なんだすな』
「確かにあいつは凄い。バスケと性格は、将に男顔負けだな」
『性格もだすか？』
「まぁ、来週の新歓コンパが来れば分かると思うよ。まぁ、飲み会で潰されないように気を付けた方がいいぞ。したら、ちょっと俺も着替えてくるよ」
キャプテンは、着替えに向う途中に、僕を振り返って、
「そうそう、トウコの性格が、男顔負けだと喋っていたのは内緒にして置いくれよ。俺が言ってたとバレたら、後が怖いからさ」
キャプテンは、笑い声を残して、用具室の中に入って行った。
第３０章 終了
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