第２６章 自転車を買いに
朝、目が覚めた。
布団から首を伸ばして時計を見ると、既に八時を回っていた。
もう少しだけ、布団の中に潜っていたい気分だった。
微睡みの誘惑に駆られた僕を、揺り起こしたのは、出窓から顔を覗かせた、太陽の元気な挨拶だった。
「おはよう」と言って、目が霞むくらい眩しい光の飛礫を、僕に向かって投げ付けていた。
僕は、愚図な気分を掴み取り、太陽に向かって投げ返した。
そして、布団の心地よい温もりから抜け出し、カーテンを勢い良く開け放った。
カーテンのレールと滑車の織り成す心地良い音が、部屋の中に響いた。
それと同時に、新鮮な朝の光が、硝子窓を突き抜けて、部屋全体に飛び込んで来た。
カーテンの軽快な音を聞くと、今日も、元気を出して、頑張って行こうという気持ちになった。
朝一番に聞く、カーテンの快滑音は、心を前向きな気分にしてくれる。
ベランダの扉を開けて外に出ると、くすぐったいほどの陽気が、肌に触れた。
空一面、どこまでも深い青に満たされていた。
昨夜の電話で、洋子から聞いた春神さんの話も、満更、嘘ではないかもしれないな思った。
両腕を空に向かって大きく広げて、麗らかな朝の空気を思いっきり吸い込んだ。
鼻腔を撫でる春の匂いが、より爽やかな気分にしてくれた。
ベランダから室内に戻って、冷蔵庫から取り出した牛乳を、マグカップに注いだ。
トーストを１枚だけ焼き、バターを右半分に、苺ジャムを左半分にたっぷり塗って、二つ折りにして頬張った。
朝食後は、炬燵に入りながらバスケット雑誌を読んで、ウダウダと過ごした。
その日のバスケットの練習は、夕方からだったので、午前中に、自転車を買いに行くことにしていた。
しかし、いざ行こうと思っても、靄の手を思い出すと、その現場を通って自転車屋に出向くのが、とても怖かった。
せっかくの麗らかな青空も、春神の残像には敵わなかった。
ふと時計を見ると、何時の間にか、１０時を回っていた。
もう一度、ベランダに出て、頭の中を空っぽにして、青空を眺めた。
小さな積み雲が、幾つか集って列をなし、気持ち良さそうに、晴空を流れていた。
それを眺めていると、部屋にいてウダウダしているのが、勿体なく思えてきたので、思い切って外出することにした。
怖気がぶり返さないうちに、そそくさと着替えた。
玄関の扉を開けて、吹きっ晒しの廊下に出た。
一面真っ白だった農場の所々に、土が透けて薄っすらと黒色になった斑紋が見えた。
農場の遥か彼方には、山頂部にアンテナ塔を王冠のように被った山が聳えていた。
手稲山だ。
陽光を浴びた山体は白く、山嶺には、いまだ厚い雪が残っていた。
アパートの階段を下り、自転車置場の横を通った。
昨晩、雪の中に自転車が埋もれていた場所を見ると、掘り出されて何処へか消えていた。
歪な穴だけが、ぽっかりと口を開けていた。
自転車の所有者が、持ち出したのだろうか？
それとも、管理人が見かねて撤去してしまったのだろうか？
若しかしたら、誰かがまだ使えると思って、持ち去ったのかも知れない。
はたまた、春神が空に向う時に、自転車に乗って夫婦星に漕ぎ出したのだろうか？
詰まらない妄想が、取り止めもなく頭を巡った。
数１０秒間、ぽっかりと空いた雪穴を眺めていたが、昨晩に見たような不気味な手は見えなかった。
唸るような長い溜息を漏らしている自分に気付いた。
正直、心の底から安堵していた。
昨晩見た物は、きっと気のせいに間違いないと、自分に言い聞かせて、雪穴の前をそそくさと離れた。
自転車屋への道中は、住宅街だった。
２階建の一戸建てが多かった。建物の背は低く、空を広く見渡す事ができた。
太陽に手を翳し、明るい空を見上げると、清らかな青空に、綿雲が緩りゆるーりと、たゆたうっていた。
浄塵された青き空に、行雲は潔いまでに白く輝いていた。
青空と見つめ合いながら、最寄りの自転車屋に向かって闊歩した。
街路を歩いていると、スコップや鶴嘴を持って、建屋や塀の日陰の地面にへばり付いた雪氷を叩き割っている人々を見かけた。 雪割りをしている人々は、一様に勝ち誇ったような笑みを湛えて、割り取った氷片を車道に向かって蹴飛ばしたり、放ったりしていた。
歩くこと１５分、自転車屋に到着した。
店の前には、沢山の自転車が並べられていた。
学生向けに売り出されているママチャリが、殆んどだった。
一方、店内には、数１０万円もの値札の付いたマウンテンバイクや競技用自転車が、まるで箱入り娘のように、綺麗に陳列されていた。
一際、目を惹いたのは、翡翠色の車体に、白タイヤのマウンテンバイクだった。
そのマウンテンバイクに乗り、颯爽と風を受ける自分を想像してみた。
しかし、２６万円と書かれた値札が、夢想を吹き飛ばし、現実に引き擦り戻した。
店内に燦然と輝く高嶺の花を諦めて、すごすごと道端に咲く花を求めて、店外に向かった。
吹きっ曝しの店頭に並んでいた自転車は、値段も種類も大して差が無かった。
自転車屋の主人に、お勧めを聞いてみたが、白髪頭の主人の返事は、ここに置いてあるのは全て新品で、品質はどれを買っても間違いはない、という自信満々ではあるが、質問の答えにはなっていない返事だった。
結局、前輪の上に荷籠の付いた、３段変速を購入する事にした。
色は紺色で、値段は、２万５千円だった。
選んだ理由は、使い勝手が良さそうで、派手過ぎず、地味過ぎず、平均的な値段と性能だったからだ。
支払いを済ませると、財布の中には数枚の漱石さんしか残らなかった。
札幌での一人暮らしの支度金を親から貰っていたとは云え、大きな出費となった。
第２６章 終了
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