第２５章 羽衣の乳房
露渕とは、北１８条門の交差点で別れて、自分のアパートまで、一人で帰ってきた。
ふと、隣のアパートとの間で、雪に埋もれている自転車に気が付いた。
雪を踏み締めて、近くまで寄って見てみると、ハンドルやシャフトが、使い物にならないくらいに折れ曲がっていた。
それは、哀れな自転車の他殺体だった。犯人は、言うまでもないが雪。
夜灯が、自転車の周りを照らし、雪は仄かに赤味を帯びていた。
その光景を眺めていると、不意に鋭い耳鳴りがした。
そして、自転車と雪の隙間から、白い靄（もや）のようなものが出てきた。
ハンドルに螺旋状に絡まり、段々と太さを増していった。
その先端が、人間の握り拳のように見えてきた。
『目の錯覚で、手のように見えただけだ…』と自分自身に言い聞かせた。
軽く息を吐いて、努めて自分自身を落ち着かせた。
しかし、目の前の光景は急速に現実味を増した。
握り拳は、開花していく蕾のように、徐々に指を開き、八手の葉っぱのように、大きく手を広げた。
その手は、手の甲をこちらに向け、小刻みに震えていた。
ピタリと動きを静止したかと思うと、手の平を僕の方に向けて、何かを掴もうとするかのように蠢いた。
その瞬間、耳鳴りが酷くなり、額から雨のように汗が噴き出た。
何かが胸に詰まったように息が出来なくなり、脚がガクガク震え、その場にひざまづいた。
早くこの場を立ち去らなければいけないと、足を動かそうとしたが、震えるばかりで言うことを聞かなかった。
金縛りのように、全身がが強張り、跪いたまま動けなかった。
体を動かそうとするのは諦めて、歯を食いしばりながら靄の手を睨みつけた。
靄の手の蠢きは、僕を引きずり込もうとしているようでもあり、縋り付こうとしているようでもあった。
ふと、この手も、何かに苦しんでもがいているのだろうか？と思った。
すると、靄の手は、動きを止めて、ゆっくりと手の平を上の方に向けた。
親指から順番に指を畳んでいき、握り拳になった。
すると今度は、まるで心臓が鼓動するかのように、ドクン、ドクンと強く収縮する動きを繰り返した。
やがて、ピタリと動きが収まり、小刻みに細動を始めた。
その細動は、徐々に振幅を増大さ、突如、ロケットのように空に飛び立ち、夜空に消えていった。
僕は、その場に倒れ込んだ。
アパートの部屋に戻ると、電話の留守電ボタンが点滅していた。
再生してみたが、メッセージは何も入っていなかった。
洋子からかなと思い、直ぐに洋子に電話した。
しかし、受話器から聞こえたのは、寂しい電話中の音だった。
以前にも、洋子が電話中の時が何回かあった。
長電話なので、しばらく、繋がらなかった。
長いい時には、二時間くらい繋がらない事もあった。
誰とそんなに長い間、話をしているのと、訝ってしまう事もあった。
誰と話していたのかと訊いても、友達と話していたといういう答えが返って来た。
その内、誰と話していたかと訊くのは止めた。
女の子は、お喋り無しでは生きていけない人種らしいという事に気が付いたからだ。
そして、お喋りという行動の重要性や意味合いが、男と女では、根本的に違うのだという事も知った。
僕は、１時間後に、もう一度掛けてみようと思い、受話器を置いた。
不気味な手を見たので、洋子に話をして落ち着きたかったのだが、できなかった。
ホットミルクでも飲んで気分を落ち着かせようと思った。
冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、マグカップに注ぎ込んだ。
なみなみと注いでから、電子レンジで温めた。
温まった牛乳を手に、炬燵に入り、ほっと一息付いた。
テレビを付けて、チャンネルを回してみたが、興味をそそる番組はなかったので、テレビを消した。
僕は立ち上がって、本棚からロシア語の教科書を取り出し、炬燵で、ロシア語の小テストに備えて勉強することにした。
１時間ほど、ロシア語の勉強をしてから、洋子に電話した。
今度は、つながった。
心躍る彼女の声が、受話器から聞こえてきた。
「はい、大海（おおみ）です」
『もしもし、タゲだけど。こんばんは』
「こんばんは。タゲ、いいタイミングで電話して来たな。さっきまで、セリナと電話してたんだよ。また、一緒に買い物さ行こうって話してたんだ」
『セリナは元気だが？まぁ、聞くだけ野暮かな…』
「うん、聞くだけ野暮だな。相変わらず、元気だったよ。タゲにも宜しくって言ってだよ」
『確か、セリナは、栃木の大学だよな？』
「うん、宇都宮の郊外さある医大。何でも、よく晴れた日には、筑波山が綺麗に見えるんだって話してたよ」
『ふーん、筑波山ね』
僕は、さも知っているかのような口調で言った。
「タゲ、知ってるの？」
『いやぁ、実は知らねぇんだ。ヨッコは？』
「ヨッコも知らねぇな。今度、セリナの所さ遊びに行った時に見てくるよ」
『東京から宇都宮ってば、結構、遠いんでねぇの？』
「んだな、１００キロくらいがな。んでも、新幹線だば１時間くらいで東京まで来れるって、セリナが言ってだよ」
『ふーん、１時間だば、あっという間だな』
「タゲも、１時間で東京さ来れたら良いのになぁ」
『んだな、飛行機だば、３時間くらいで行けるとは思うばって、何しろ飛行機代が高いからなぁ』
僕は、声にならない息を漏らした。
芹奈と僕は、お隣さんで、両親同士の仲が良かったこともあり、彼女と僕は幼稚園、もっと正確に言えば、乳幼児の時からの幼馴染だった。
芹奈は、幼少の頃から背が高く、体格も良く、近所で有名なお転婆娘だった。
よく同世代の男の子と喧嘩をしては泣かせていた。
それに対して、幼少の僕は、痩せていて、喧嘩は滅法弱かった。
僕が、何度か悪ガキたちに苛められている時に、彼女が助けてくれた事もあった。
高校１年の春になって、ようやく彼女の身長を抜いたが、いまだに彼女には、頭が上がらない。
「タゲ、若しかして何回か電話した？」
洋子が、電話の向こうで少し申し訳なさそうな調子で聞いた。
『うん、若しかして、電話したよ』
「ごめんね。セリナと、ちょっと長めに電話してたがら｣
『所で、セリナさ電話する前に、我さ電話くれか？留守電が入ってたから…』
「なんも、今日はタゲさ電話してねぇよ」
『あれー、せば、誰だべな』
「タゲのお母さんじゃねーの？家さはちゃんと電話してる？」
『いや、あんまり電話してね―な』
「ちゃんと電話しねーば駄目だよ。心配してらんだがら」
『はいはい、分がりました」
「タゲ、体調は大丈夫？昨日は、大分、疲れてだみだいだったね」
『今朝は、筋肉痛が酷くって、大変だった』
「バスケ部の練習は、そんたに大変なの？」
『んだ、練習さ付いで行ぐので精一杯だ。練習中は、死ぬったげ、こえーよ。初日は、途中で吐いでしまったし』
「あんまり無理すれば駄目だよ」
『何も、大丈夫だ。無理はしてねよ』
「今夜も温かくして、早めに寝た方が良いよ」
その言葉を聞いて、昨夜、洋子との電話が終わってから、炬燵の中でウトウトして、そのまま寝てしまったことを思い出した。
その事を、言うか迷ったが、叱られるかなと思い、口に出さずに話題を変えた。
「うん、今日は、早く寝るよ。所で、札幌さ来て分がったんだばって、疲れた時に、こえーって、喋らねんだな」
「んだな。”普通”は、喋らねーよ。タゲは、”普通”に話してるの？」
『”普通”に喋ってらよ。んでも、通じね事が多いな』
「”普通”に喋ったら通じるべしゃ」
『いや、通じねな。何でだべ？』
「言葉を直しても、イントネーションが秋田弁のままなんでねーの？」
『言葉？何も直してねーよ』
「えっ、直してねーの。それだば、通じる訳ねーべ。それは、”普通”に喋ってるって言わねーよ」
『なんで。秋田弁しか喋った事がねーんだがら、”普通”に喋るっていったら、地元の言葉しか出でこねぇべ。ヨッコは、秋田の言葉で喋ってねーの？』
「うん。ヨッコは、”普通”に喋ってらよ。上手に猫を被って、共通語で友達と話をしております」
『ふーん、流石ですね、ヨッコは。外語大さ合格するだけあって、日本語も、色々と堪能なんだな。俺は、猫を被るにも、被るための着包みがねーよ。んでも、何だが、ヨッコに裏切られだ気分だな』
「確かに、ヨッコは、東京では共通語で話してる。んでも、自然では、ねぇんだ。タゲの言う通り、”普通”に喋るって何なんだべな？故郷の言葉で喋ってる時が、物凄くホッとするんだ。んだがら、タゲと電話で話してる時間が、ヨッコにとっては、一番、ホッとする時間なんだ」
その言葉を聞いて、｢一番、ホッとする｣という一言に対して嬉しいと思った反面、自分はホッとするだけの存在なのか？という物足りない思いも感じた。
『確かにヨッコと話している時は、ホッとする。んでも…』
その後の言葉を、言い澱んだ。
「んでも、どうしたの？」
『いや、何でもねよ』
僕は、感じた物足りなさを、男としての強がりで覆い隠した。
「本当に、何でもねぇの？言いたいことあったら、言えば良いべ」
『本当に、何でもねぇよ』
「ふーん。何でもねぇんだば良いんだばって…」
『所で、ヨッコは、サークル決めだ？』
「うん。週に数回のバスケサークルさ入ろうがなって思ってるんだ。他大学の人もいるサークルだし、交流の輪が広がるど思って。練習内容も、体育会系よりは楽だし、他にもバイトもやりたいしな」
『バイトは何やるの？』
「伯父さんの経営している喫茶店でバイトをする予定」
『そう言えば、伯父さんが東京にいるって言ってだな。場所はどこ？』
「東十条駅前の商店街。ヨッコのアパートも、直ぐ近くさあるがら、行き来も楽なんだ」
『そっか、喫茶店で働ぐんだな。ヨッコのウエイトレス姿、見てみてぇな』
「東京さ来れば、見れるよ」
『意地悪言わねぇでよ、今すぐは行けねーよ。んだ、良いこと思いついた、写真送ってよ。ヨッコのウエイトレス姿』
「えー、タゲって、コスプレの趣味だったの？」
『違うよ。ただ、ヨッコの写真が欲しかっただけだってば』
「一緒に写ってる写真、持ってらべ？」
『うん、持ってらよ。んでも、ヨッコが働いてる時の写真も、素敵で良いがなって思ったんだ…』
僕は、そう言ってから、棚の上に置いて二人の写真を見た。
高校三年の夏休み、夏期講習を一日だけサボって、一緒に十和田湖に行った時の写真だ。
「そんた巧いこと言って、おだてようとしてもしても駄目だ」
『えー、ウエイトレスの写真ぐらい良いべっしゃ』
「んだば、先にタゲの写真送ってよ」
『我の写真で良いんだば、何ぼでも送るよ。どんた時の写真が良い？』
「んー、タゲがバスケットやってる時のが良いなぁ」
『お安い御用だよ。せば、直ぐ撮って送るがら』
「んでも、無理して直ぐでなくてもいいよ。タゲも講義が始まったばっかりで、いろいろと忙しいべ？」
『講義は、そんたに忙しくはねぇよ。空き時間も多いし。ヨッコの方はどうだ？』
「思ってだ以上に大変だし、都会の生活にも慣れてねがら、田舎者のヨッコは、余裕がねぇよ」
『外語大は大変なんだな。こっちは、大変というよりも詰まんない講義が多いな。まぁ、まだ数回しか受けてねぇがら、はっきり言い切れねぇばって…』
「そんなやる気のないこと言わねぇで、ちゃんと講義に出ねば駄目だよ。折角、頑張って大学さ入ったんだべ。空っぽ病んで、留年なんかしたら、仕送りしてけでるタゲの両親に申し訳ねぇべ」
『んだな。まぁ、留年しない程度には頑張らねばな。希望の学科さ入るには、移行点で決まるがら、面白ぐねくっても、しっかり勉強して、いっぱい”優”の評価を取らねばならねがらな。まぁ、頑張るよ』
｢んだ、その調子で頑張って｣
僕は、アパートの前で見た靄の手の話を言おうか迷った。
洋子との会話で大分、気分は紛れてはいたが、一人で薄気味悪さ抱えていると、深い恐怖に引きずり込まれて行きそうな気がしたので、話すことにした。
『話変わるばって、ヨッコは、幽霊って見だ事あるが？』
「見だ事ねぇよ。どうしたの、若しかして、幽霊を見だの？」
『今日、アパートさ帰ってくる途中に、自転車が雪の中さ埋もれているのに気付いだんだ。んで、そこから、人の手みだいなものが出て来て、金縛りみたいに動
けねぐなってしまったんだ。しばらくしたら、空の方さ飛んで行っていってしまったんだ。あんまり気味悪いがら、逃げで帰ってきたんだ。若しかして、幽霊だ
べが？それとも、幻覚だべが。ヨッコはどっちだど思う？』
「きっと、幽霊だよ。昔、そこさ、雪に埋もれて死んだ人がいだんだ。その人の怨念だな」
『えー、本当に。あれ幽霊だべが？どうせばいいべ。もう、俺、おっかねくて、アパートのの前、通れねぇよ』
得体の知れない不気味さが、確信の恐怖に変わった。
背中から首筋に掛けて寒気を感じ、受話器を持つ手に汗が滲んできた。
「なーんちゃって。タゲは、相変わらず、すぐ騙されるぁ」
『何だよ。人が真剣に話してらのに、酷いな』
僕は、いじけて言った。
｢ごめんね、タゲ。それはきっとね、春神さまが、雪の中がら出でくる所を見たんだよ｣
『春神さま？』
「んだ。きっと春神さまだ。子供の頃に、婆っちゃがら、春神さまの話っこを聞いだ事あるよ。タゲは聞がねがったの？」
『聞いだ事ねぇな。それで、ヨッコのお婆ちゃんは、今年で、何ぼになるの？』
「婆っちゃは、中学の頃に亡くなったから、もういねぇよ」
『んだのが、何だが悪り事、聞いでしまったな』
「なんもだ、大丈夫だよ。んで、婆っちゃの話ではな、春神さまは、冬の間は、土の中に眠っていて、春が近くなると、雪っこを溶かし始めるんだって。んで、ある晴れの日の夜に、木の幹と雪っこの隙間から出て来るんだって」
『その春神さまってのは、手のような形してらの？』
「んー、はっきり覚えでぇな。んでも、雪間がら出てきた春神さまは、”夫婦星（めおとぼし）”の方に向がって飛んで行ぐんだって。飛んで行ぎながら、地上
いっぱいに、春の気をばら撒いで行くんだどさ。んで、その春の気に当たった人間は、物凄く良く眠れて元気になるんだって。んでもね、逆に、体が弱ってる老
人とか病人は、その力に絶えられないと、魂を持って行がれでしまうんだってさ」
『春神さまって、非情なんだな。んでも、木の雪間がら出て来るんだべ？なして、チャリの雪間がら出てきたんだ？』
「さぁ、なしてだべな？札幌は都会だがら、木々があんまり無くて、しょうがねがら、チャリの所から出てきたんでねぇの。春神さまも、都会では、ながなが容易でねぇな｣
『ふーん、んでも、札幌は街路樹も多いし、大学内にも原生林があるから、木は十分にあると思うんだばってなぁ？』
「せば、本当に、自転車の怨念かもね」
『ちょっと、ヨッコ、脅かさねぇでよ。夜、寝れねぇぐなるよ』
「何てね…。空に飛んで行ったんだべ？夫婦星の方さ飛んでいったんだば、きっと春神さまだ」
『札幌の夜空は、ほとんど、星が見えねぇよ。んだがら、若しかしたら、春神さまも、何だっけ、その”乙女星”っていう星を見つけられねぇが？』
「タゲ、”乙女星”でねぇくて、”夫婦星”」
『”夫婦星”か？あんまり、聞いだ事ねぇな。それって何所さあるの？』
「さぁ、何所にあるんだべな？」
『あれっ、ヨッコも知らねんだ。』
「子供の頃に、名前を聞いただげだがら、あんまし覚えでねぇんだ。んでも、夫婦星っていうぐらいだがら、二つペアになってる星だと思うよ。タゲ、調べでおいでよ」
『おう、分がった。調べでおぐよ。んで、話を戻すばって、春神さまを見でしまった人はどうなるんだ？』
「んとね、別に害はないって言ってだよ。タゲは、健康だがら、春の気をいっぱい浴びても大丈夫だ」
『何だが、適当な言い方だな。ヨッコ、若しかして、また、我を騙しそうとしてらんだべ？』
「何も、騙そうとしてねぇよ。この話は、本当だ。仏様になった婆っちゃの名誉に掛けでも本当だ。んだがら、何も怖がる事はねぇよ」
『何だが、そう言われだら、大丈夫のような気がしてきたな』
「んだべ。もし、寝でる時に、おっかなくなったら、ヨッコの事を思い出せ。そしたら、ヨッコが、胸の中でタゲを抱きしめてあげるがら」
『んで、その時、出てくるヨッコは、当然、何も着てねんだべ？』
「馬鹿。全く、夢がないなー、タゲは。ヨッコのイメージは、天使です。んだから、残念ながら、白くて美しい羽衣を着て、背中には綺麗な翼が生えてるんだ」
『何だが、ちょっと残念だな。まぁ、良いや。せば、羽衣の下からヨッコの胸の中さ潜り込むよ』
「全く、タゲのスケベ」
『ありゃ、ヨッコの胸を想像してだら、段々、あっちの方が元気になって来た』
「はい、はい。その元気があれば、何も心配いらねぇな。まぁ、筋肉痛も直ぐ治るべ。いやらしい事ばっかり考えてないで、勉強も頑張らねば駄目だよ」
『頑張ってらよ。さっきだって、電話する前にロシア語を勉強してだんだがら』
「おー、やるね」
『まぁね。ヨッコも頑張ってよ』
「うん、ありがとう。んだば、そろそろ、ヨッコ眠ぐなって来たらがら、寝るよ」
時計を見ると、何時の間にやら１２時を回っていた。
「タゲ、明日の土曜日は、何かあるの？」
『夕方から部活だな。午前中は、自転車でも買いに行こうがなって思ってらんだ』
「自転車かぁ、良いね。んでも、まだ雪は残ってるんでしょう。運転は大丈夫？」
『大丈夫だ。車道は殆ど乾いでるがら。それに、みんなも、普通に乗ってらし』
「ふーん、車道はもう、雪ねぇんだな。んでも、車には気を付けでね」
『はい、はい。分かりました』
「んだば、またね。スパコーィナィ・ノーチ」
『何だ、それ？』
「ロシア語で、お休みなさいって言ったんだ」
『ふーん、ロシア語で、お休みか』
「まだまだ、勉強不足だね」
『くそー、悔しいな。負けないように、我も、もっと勉強するやるど』
「うん、頑張ってね。んだば、お休みー」
僕は、受話器を耳に付けたままして、洋子が電話を切るのを待った。
「プーッ、プーッ」という非通話音を聞いてから、受話器を置いた。
電話を終えてから、洋子のことを想い、ぼんやりとした。
その状態のまま、目を閉じて、白い羽衣をまとっている洋子を思い描いてみた。
彼女は、両手を差し伸べて、優しく僕の頭を撫でてから、胸元に抱き寄せてくれた。
羽衣を通して、乳房の柔らかい感触が頬に伝わってきた。
乳房の間に埋もれていると、僕の中の一切の虚勢が、溶け落ちていくような気分になった。
第２５章 終了
→ 第２６章 自転車を買いに へ
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