第２０章 交流なき英語
目が覚めた。誰かに呼び起こされたような気がしたが、周りには誰もいなかった。
錯覚だろうか？
それとも、本当に天使が現れて、僕を、現の世界に、連れ戻してくれたのだろうか？
時計を見ると、夜中の２時を過ぎていた。
つけっ放しにしていたブラウン管には、街灯が頼り気なく灯っている深夜の大通公園が映し出されてた。
喉の奥が、少し痛んだ。
洋子のアドバイスを聞き流して、炬燵で寝てしまったせいだ。
寝惚けながら、炬燵から抜け出し、布団を敷いた。
着ていた上着やズボンを脱ぎ捨てて、Ｔシャツとパンツだけになった。
部屋の電気を消し、すぐさま、布団の中に潜り込みんだ。
夢現の心持になり、意識が薄らいだ頃、付けっ放しの炬燵と石油ストーブの事を思い出した。
むっくりと起き上がって、部屋の電気を点けてか、炬燵とストーブの火を消した。
魂を眠りの世界に誘う天使は、油断すると、命を奪う悪魔になり変わるから始末が悪い。
危ないところだった。
僕は、もう一度、蛍光灯を消燈して、布団の中に潜り込んだ。
朝、目が覚めると、太陽が、窓から顔を覗かせて、しきりに瞬いていた。
尿意を覚えたので、便所に行こうと立ち上がった瞬間、ひどい筋肉痛になっている事に気が付いた。
首筋から足先に至るまでの筋肉は、鋼の鎧のように重かった。
また、身体の節々からは、油の切れた機械のように、ギシギシという音が聞こえてきた。
傷みに耐えて、立ち上がったが、出来そこないのロボットのような動きだった。
トイレに入り、便座に座った。
体が疲労困憊しきっていると言うのに、あそこだけは元気に朝立ちをして、生意気な顔で僕を睨み付けていた。
そのままの状態で放尿しても、尿が便器から飛び出てしまい、下手をしたら顔に掛かり兼ねないので、手で根元を上から抑えつけて、頭の先を下の方に向けた。
ミサイル照準のロックオンのように狙いを便器に固定し、尿を放った。
疲れ切っているのに、どうして、こいつだけは、こんなに元気なんだろう、と思いつつ、噴水のように流れ出る尿を眺めた。
便所を出てから、シャワーを浴びる事にした。
講義の開始時刻まで、１時間ぐらい時間があった。
１５分くらいで上がるつもりだったが、のんびりと浴び過ぎてしまった。
バスタオルで頭を拭きつつ、時計を見ると、講義まで、２０分足らずだった。
急いで服を着て、身支度を整えた。
玄関で、腕時計を見ると、講義まで１０分ぐらいだった。
部屋を出てから、走り出そうとした瞬間、脚全体に傷みが走り、神経を鋭く抉った。
｢痛っ｣と悲鳴をあげて、転倒しそうになったので、壁に凭れ掛かった。
しゃがみ込んで足をさすった。
もみ解してから顔を上げると、空高く登った太陽が、吹き曝しの廊下でもがく僕に向かって、嫌味ったらしくスポットライトのように照らし付けた。
僕は、ゆっくりと立ち上がり、痛みが許す程度の小走りで、講義に向かった。
講義には、ギリギリで間に合った。
朝一の講義は、英語だった。
一冊の英語の本を、学生が持ち回りで訳し、講師が解説をすると云う、至極、面白味のない講義だ。
外国語を学ぶと云う事は、言葉の違う異国の人との意思の疎通や、心の交流を目的にしている筈なのに、学生と講師との間に交されているのは、本に記載されている暗号の意味の確認だけだった。
中学、高校と大学に入るまでに、紙の中に存在する英語は勉強して来た。
寧ろ、大学に入る為に、英語の単語や文法を頭の中に詰め込んできたと言った方が適当だろう。
大学に入ってまでも、字面を追い駆けるだけの表層的な講義を受けるとは思わなかった。
正直言って、失望した。
本に記載されている英語を訳すだけなら、辞書を片手に自習すれば良い話だ。
教授だか助教授だか知らないが、大学から高い給料をもらって、偉ぶって教壇に立っているだけの人間は不要だ。
大学に合格できるくらいの英語知識があり、事前に本の内容の下調べをしてさえ置けば、何も教授や助教授ではなくても、そこいら辺にいる学生にでも出来る仕事だ。
筋肉痛を耐えながら、急いで来たというのに…
そんな自分の努力が、甚だ阿呆らしく思えた。
交流の無い語学のお勉強が終わると、講義室を見渡してシュウを探した。
彼は、講義室の後方の席に座っていた。
彼の所に行き、声を掛けた。
『おはよう。筋肉痛、大丈夫だが？』
「大丈夫な訳ねぇよ。もう、死にそうだ。倉内は、今日も練習行くのかい？」
『うん、行くつもりだ。練習は、わったり、こえーばっな』
「恐い？練習は、しんどいけど、恐くはないだろ？」
『コワイではなくって、コエーって言ったんだ』
「コエー？何それ？恐いじゃねぇのかい？」
と言って、シュウは、きょとん、としていた。
『疲れた、という意味なんだけど…言わない？』
「言わねぇだよ、そんな事は」
『そっか、言わねぇが…まぁ、それはいいとして、今日も頑張って練習さ出るつもりだ』
「俺は、あの練習に付いていくのは、ちょっと無理そうだな。今日は、休むよ」
『そっか、行かねぇのが…まぁ、仕方ねぇな』
筑紫が、やってきた。
「おはよう。バスケットマン達で、朝からバスケ談義とは、元気な事だな。どうだった、昨日の練習は」
と少し戯けた顔で訊いた。
「本気で死ぬかと思ったよ。途中でゲロって、殆ど見学だったよ」
シュウは、軽く首を振りながら言った。
『確かに、めちゃくちゃ、きつい練習だっけな。俺も途中で、ゲロして、リタイアしたよ』
「お前ら、そんなアホみたいな、しんどい練習をよくやろうと思うね。ご苦労な事だよ、全く」
『しんどくても、やっぱり、バスケは面白いがらな』
「ふーん、そんなもんかね。所でさ、講義室の窓から見えたんだけど、お前、さっきキャンパスを、忍者が小走りするような格好で走っていただろう？何で、あんな変な走り方してたの？」
『筋肉痛で思いっきり走れねがったがら、ああいう走り方になったんだ』
「そう言うことか。俺は、忍者走りしてたから、うんこでも我慢しながら走っているかと思ったよ」
筑紫は、ガハハと笑った。
僕の背後からひょっこり長沼が顔を出した。
「２人とも、ご苦労さんだったね。しんどい事を避けて何もしないよりは、夢中になれる事に一生懸命に打ち込めむ方が素晴らしいと思うよ。まぁ、怪我しない
程度に頑張ってよ。それでさ、次の講義は、化学だけど講義室への行き方、知ってる？結構、教養北棟の中でも奥まった場所にあって、分かりづらいらしいよ」
「ふーん、教養の北棟って、そんなに広かったっけ？」とシュウが訊いた。
「広くて分かりづらいと言ってもよ、案内図見て行けば着くだろうよ」
筑紫が言った。
「甘いね、筑紫。俺も先輩から聞いただけで、実際に全部見て回った訳じゃないから、良く分からないけど、奥の方には、講義室の他に、教官室、実験室、研究室とか、色んな部屋があって、通称、教養迷路と呼ばれているらしいよ。そして、何やら怪しげな所も在るらしいよ」
「何だよ、怪しげな所って。長沼さ、お前の言い方は、何か回りくどいんだよ。化け物でもでるのかよ？」
筑紫が、苛ついたように尋ねた。
「まぁ、焦るな。次の講義までの時間が少ないから、詳しくは昼休みにでもゆっくり聞かせてあげるよ。先ずは、次の講義室に行こうぜ」
長沼は、細い目を、得意気な笑みで更に細めて、廊下に向かって歩いて行った。
筑紫が軽く舌打ちをして、
「あの野郎、また人を見下した態度取りあがって…」と、小声で言った。
第２０章 終了
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