第１９章 雪と桜
アパートの階段を上り、部屋のドアの前に立った。
ごわごわとした厚手の手袋をしていたので、ポケットからスムーズに鍵を取り出すことができなかった。
右手を左脇に突っ込んで、脇と腕で挟んで、手袋から手を引っこ抜いた。
取り出した鍵で開錠してから、素手でドアノブを握った。
その刹那、凍りつくような冷気が、掌を突き刺した。
「しゃっけぇー」と叫んで、反射的に引っ込めた。
誰もいないアパートの廊下に、落とした鍵の音が響いた。
鍵を拾い上げてから、手袋を嵌め直した。
氷のようなドアノブも、厚い手袋には、太刀打ち出来なかった。
しばれる夜気が部屋の中にも忍び込んでいて、テレビなどの家財道具も凍えていた。
真っ先に電気ストーブを付けて、炬燵にスイッチをつけた
寝そべりながら、床に転がっているリモコンを手に取り、テレビを点けた。
チャンネルを回してみたが、面白そうな番組は流れていなかった。
特に観たい訳でも無かったが、適当なニュース番組を点けておいた。
何か温かい物を飲みたいと思い、冷蔵庫を開けてみた。
飲みかけの１Ｌの紙パックの牛乳が残っていたので、取り出した。
マグカップに牛乳を注ぎ込み、電子レンジで温めた。
マグカップは、実家から持参したもので、元々は、牛乳のような白磁色だったが、長年の愛用で、象牙色に変色していた。
電子レンジを覗き込むと、マグカップは、黄燈を受けて、くるくると周わされ続けていた。
炬燵に戻り数分が経ち、マグカップもだいぶ目を回してしまったかなと思っている頃に、「チン」と音が鳴った。
電子レンジを開けると、温かい湯気と供に、牛乳の優しい匂いが部屋に広がった。
唇を当てて、一口啜ると、表面に浮かんでいた白い乳膜が、唇に張り付いた。
舌でぺろりと嘗め取って、舌の上で丸めてから、数回咀嚼してから飲み込んだ。
マグカップをもって、炬燵に戻った。
牛乳を啜りながら、ブラウン管から垂れ流しの映像に眼をむけた。
テレビでは天気予報をやっていた。
お天気お姉さんの話によると、桜前線は、南東北の辺りまで進んでいて、東京の桜は、散り始めているらしい。
ブラウン管には、不忍池が映し出されていた。
風に舞い、水面に漂う花弁の中で、漫ろに歩き行く人々の様子は、情緒と喧騒に沸く東京を象徴しているようだった。
洋子が電話で話していたように、東京では桜の季節が謳歌されていた。
未だ、白雪の支配から抜けきっていない札幌にいて、炬燵で丸くなっている者には、何とも季節外れに感じられた。
温かい牛乳のお陰で、冷えていた体も内側から、ほくほくと温まってきた。
湯気上がる白い乳面を眺めていると、札幌に桜が咲いたら、その可愛い花を一つ取って来て、浮かべたら綺麗だろうなと思いながら、札幌が桜の彩りに満たされるのは、いつの事やらと…と溜息が漏れた。
炬燵で寝転びながら、テレビを見ていると、温もりという天使に手を取られて、僕は、黄泉の国の近くにある眠りの世界を彷徨っていた。。。
電話の音で、目が覚めた。
重い瞼を擦りながら、受話器を取った。
「もしもし、ヨッコだよ」
『おはよう』
「おはよう？今、まだ夜だよ」
『あー、んだな。寝惚けてだよ。炬燵さ入ってだら、寝でしまってだ』
「炬燵で寝でれば、風邪ひいでしまうよ」
『んだな。気を付けます』
「うん、気を付けでね。そうそう、雪だるま届いたよ。タゲ、ありがとう」
『無事に着いだが？溶けてねがった？』
「大丈夫、可愛い雪だるまだったよ。溶けないように、冷凍庫さ入れでおいだよ。んでも、びっくりしちゃった。」
『ヨッコが、雪が恋しいって言ってだがら、こしらえて送ったんだ』
僕は、嫉妬の雪が降った夜、小さな雪だるまを作り、洋子に贈っていた。
「発泡スチロールの箱で、冷凍宅急便って書いてあったから、何が入っらんだべと思って開けたんだ。若しかしたら、蟹？って思ったんだばって、まさか、雪だるまが入ってるどは思わねがったよ」
『蟹でねくって、残念だったな…』
「なんも、雪だるま、すんごく嬉しかったよ」
『この前、電話した夜に、ちょうど良い雪が降ってたから、作ったんだ』
「春の雪って、水分多くってベチャベチャしてらのに、上手に作ったね」
『秋田の雪よりもパサパサして軽いがら、札幌は、春ぐらいが、水分多くてちょうど良いみたいだな』
「へぇ～、秋田と札幌だと、雪質が違うんだね。札幌の雪次郎、大事に取っておくからね」
『雪次郎？若しかして、それって雪だるまの名前だが？』
「んだ、めんこい名前だべ？」
『めんこいのがな…？』
可愛らしいというよりは、勇ましいように思えた。
しかし、折角考えてくれた名前に文句を付けるのも角が立つと思い、相槌を打った。
『さっき、テレビでやってだけど、東京はもう、桜、散り始めでるんだべ？』
「うん。今日も、お昼休みにクラスメイト達と一緒に、外語大の近くさある染井霊園さ行って花見して来たよ」
『花見かぁ～、いいなぁ。羨ましいよ。札幌は、まだ当分、花見じゃねくって、雪見が続きそうだ』
僕は、そう言って、苦笑した。
「あっ、そうそう思い出した。タゲ、花見で一つクイズだすよ」
『ああ、良いよ』
「公園とかお城跡に、よく植えられている桜で、仄かに紅色掛かった白い花を、たくさん付ける桜の種類は、なーんだ？」
『それって、校庭どがに良く植えられでるやつだべ？』
「んだよ」
『種類ってもなぁ？名前を知っているっていえば、紅山桜くらいしか知らね―な』
「残念。紅山桜ではねーよ」
『うーん、分がらねぇや』
「答えは、染井吉野でした」
『あぁ、その名前は、聞いたことあるなぁ。んでも、ヨッコ、よく知ってだな』
「実はね、ヨッコも、今日初めで知ったんだ。花見に一緒に行った友達が地元の人で、その人から聞いだんだ。外語大がある所が、染井なんだ。んで、江戸時代に、住んでだ植木職人が、何とかって言う桜と、何とかって言う桜を掛け合わせて作ったんだって」
『ふーん、それは知らねがったな。そこら辺に生えてる桜を取ってきて植えでるど思ってだよ』
「実は、ヨッコもそう思ってだよ」
『普通は、そう思うよ』と僕は、頷いた。
「ヨッコは、染井吉野よりも、そこら辺に生えてる山桜が好きだけどな」
『んだが？我は、染井吉野の方が、花振りが良くて綺麗だど思うよ』
「染井吉野は、何だが、全部の木が同じように洗練さてる感じがして、あまり好きではねぇーな」
『ふーん、豪華絢爛で良いと思うばってなぁ。』
「その豪華で洗練されてる所が、都会の女性みたいな感じがして、ヨッコは、ちょっと気後れしてしまうのがも知れねーな」
『ふーん、都会の女の人みたいか…』
「やっぱり山に咲く紅山桜が一番好きだな。ゴールデンウィークになったら、秋田の桜を一緒に見に行こうね」
『うん』
「んだば、また電話するね。炬燵でねくて、ちゃんと布団敷いて寝るんだよ」
『うん、分がってらよ。大丈夫だ』
「タゲの大丈夫は、あんまり当てにならねぇがらな…」
「大丈夫だって。ヨッコこそ、風邪ひがねぇように気付けれよ」
電話が終わってから、再び炬燵に入り、テレビを見た。
冷蔵庫から牛乳を取り出して、マグカップに継ぎ足して、再び電子レンジで温めた。
テレビを付けても、同じようなスポーツニュースを繰り返しているだけだったので、バスケット雑誌を、横になって眺めた。
そして、再び、温もりという天使がやってきて、僕を眠りの世界に誘った。
第１９章 終了
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