第１７章 地獄のフットワーク
受験勉強による運動不足で、僕の体重は、高校の現役時よりも、３キロ程増えていた。所謂、受験太りだ。友達の中では、受験太りで、体重が５キロ以上増えた人はざらにいたし、１０キロ以上増えた人も珍しくなかった。それに比べれば大した事はないと思っていたが、如何せん、筋肉が落ちて、脂肪が付いた。車に喩えれば、馬力を落として、荷物を乗っけたようなものだ。案の定、練習が始まると、最初のコート１０週のジョギングで息が上がった。
ジョギングが終わって直ぐに、フットワークが始まった。
フットワークというのは、ボールを使わないで、バスケットの基本的な動作であるダッシュ、ストップ、ターン、ステップ、ジャンプなどを、組み合わせて行う反復運動の事である。
地獄のフットワークを、この時、初めて味わう事になった。
高校の練習では無かった動作がたくさんあり、どのように動いたら良いか分らなかった上に、直ぐに、残り少なくなったジュースを啜るストローのような音を立てて、気道が鳴っていた。
フットワークの始めは、自分が今、どんな運動をしているという意識があった。
だが、それも束の間、徐々に運動強度が高くなるに従い、血液中の酸素と共に意識も薄れていった。
途中からは、唯々、先輩達が動き去って行った空間をなぞり、その幻影を追うのみだった。
普段、何気なく行っている呼吸という動作が、如何に大変であるかという事だけが、身に沁みた。
途中で、何名かの新入部員が、トイレに駆け込んだが、僕は何とか堪えた。
視界はぼやけ、空間は、希薄に揺らいでいた。
踏ん張りの利かない体を、意識の漂流の為すがままに動かした。
地獄のフットワークが、ようやく終了した。
その時、僕は、なんとかコートの上にいたが、
「次のメニューは、スリーメン」と言ったキャプテンの言葉を聞いた瞬間、凌いで来た吐気が喉元に湧き上がり、虫唾が走った。 僕は、トイレに走った。
口を手で塞ぎ、胃からの逆流に抗いながら必死で便器に向かった。便器の上に顔を晒した瞬間、体内からの逆流は開放されて、勢い凄まじく散った。
怒涛の如き第一波が過ぎると、湧水の如き第二波が来た。
消化物を吐き出した胃袋がさらに搾られて、喉から胃液の搾り汁が漏れ出し、口から黄色味掛かった液体が垂落ちて行った。
最後に吐く胃液さえもなくなり、涎だけが滴となり、便器に落ちていた。
水流しのバーを押すと、嘔吐物と供に、僕の薄っぺらい決心も、流れて消えた。
トイレから出て来て、手洗いまで行くと、秀が口を漱いでいた。
隣の蛇口に行き僕も口を漱いでから、顔を洗った。
「倉内、お前も吐いたのか？」
『あぁ、胃の中身が無ぐなるまで吐いだな』
「俺も、胃の中は、素っ空缶になっちまった。俺はもう、練習に加わらないで見学してるよ。倉内は、この後、また、戻ってやるのかい？」
僕は、首を小振りしてから、『無理だな』と答えた。
体育館のフロアに戻った僕達は、コート外で、先輩達の練習を見学していた。コートの外には、地獄のフットワークでトイレ送りとなった新入部員の列が出来ていた。練習を眺めて立ち尽している僕の双眸は、焦点が定まらず、蜃気楼のような現実を彷徨っていた。心の中では、リタイアした自分への腹立たしさと、他の新入部員も自分と同じく途中脱落したという安堵が入り混じっていた。
第１７章 終了
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