第５７章 自己紹介
皆が注目する中、露渕は、ビールを片手に立ち上がり、グラスを高く掲げた。
「頂きまーす」と叫んで、ビールを飲み始めた。
先輩たちの飲むスピードに比べると遅かったが、飲み切った。
「札幌西川高校、しゅっしーん。」
『さっぽろにしかわー！』と先輩達の大唱和が轟いたが、同じ高校の人はいないようで、立ち上がる人はいなかった。
「教養学部、文Ⅱ系しょぞくー」
『ぶんにー？』と大唱和が響くと、男女合わせて１０人くらいの先輩が立ち上がった。
その中には、女バスのエースである藤子さんの姿もあった。
２杯目のビールを飲み切った露渕の目元や首筋が、仄かに赤味を帯びていた。彼は皓歯を見せてニコニコしながら、３杯目のビールを注いでもらい、グラスいっぱいになると叫んだ。
「僕のポジションは、シューティングガードです」
『シューティングガード？』と轟くと、数え切れない程の人が立ち上がった。
小麻子さんが、斜に構えて言った。。
「タケ、あんたもシューティングガードじゃなかったっけ？まぁ、露渕くんとは違って、あんまりシュートは、入らないみたいだけど…」
『シューティングガードだす』
「だったら、あんたも立って、乾杯すんのよ」
『えっ、新人も飲むんだすか？』
「当たり前よ、ほら、早く立って乾杯せ」
１００ｍ競走でスタート位置に付く前に、スタートの鉄砲を鳴らされた気分だった。
同じポジションで乾杯する事には、まぁ納得したが、小麻子さんの余計な一言が、心の引っ掛かった。ただでさえ苦いビールが、余計に苦く感じた。
「その名も、その名も、露渕蔵久（つゆぶちくらひさ）。宜しくお願いします」と礼をしてから座った。
会場から、大きな拍手が湧き起こった。
露渕の次は、僕の番だった。
僕は、バスケットでは目立つことができない分、ここで一発目立ってやろうと、気合を入れて立ち上がった。そして、琥珀色の炭酸水を、一気に飲み干した。
「おおー、早え」と、周囲から感嘆の声が湧き上がった。
その歓声を悦に聞きながら、腹の底から叫んだ。
「秋田県立、桂鳴高校、しゅっしーん」
『あきたー？』という大唱和が響いた。
眼前に座っていた小麻子さんが、勢いよく飛び上がり、グラスを高く掲げて、「イェーイ、あきたー」と嬉しそうにして、割れそうな勢いでグラスをぶつけて乾杯した。
僕も、彼女のハイテンションのせいで、何だか嬉しくなり、２杯目を、数秒でビールを呷った。
「あんたも、結構な呑み助だな。一気飲み、ワッタリ早ぇしゃ。さすがは、秋田の男。腐っても鯛だな。まぁ、もっと飲め」と、小麻子さんが、上気した顔でビールを注いた。
僕は、軽く息を吐いてから、下っ腹に力を込めて、再び声を張り上げた。
「教養学部、理Ⅰ系、しょぞくー！」
『りいちー？』という大唱和に合わせて、１０人以上の人が立ち上がったが、女子は誰もいなく、男子だけだった。もう、味もへったくれもなかった。喉を開
けっぴろげにして、ビールを一気に流し込んだ。立て続けに、３杯飲んだせいで、大きなゲップが出た。その拍子に少し吐き気を覚えた。
ふー、ふーと、息を整えてから、吐き気を振り払うため、声を張り上げた。
「ポジションは、シューティングガードだす」
『シューテングガード？』とお決まりの大唱和の後、多くの先輩達が立ち上がって乾杯をした。
露渕も立ち上がって、僕と乾杯するために、わざわざ来てくれた。彼は、既に出来上がっていた。
お役目を終えたという気楽さもあったのだろう、露渕は顔を紅潮させて楽しそうにはしゃぎ回り、席を巡って皆とグラスを合わせていた。
さすがに、４杯目ともなると胃袋も膨れて、なかなかビールを飲めなかった。半分まで飲んでから、息継ぎをして、さらに飲んで、何とか４杯目を飲み終えた。
胃袋がパンパンになるまでビールを飲まされるのが分かっていたら、宴会前に、牛乳を５００ｍLも飲まなかったのに…と後悔したが、後の祭りだった。
しかし、何とか、自己紹介の最後の台詞まで辿り着くことができた。
もう飲まなくていいんだと、安堵した。
大きく深呼吸してから、下っ腹に力を込めて名前を叫んだ。
「その名も、その名も、倉内岳実（くらうち たけみ）。宜しくお願いします」と御辞儀をした。
ようやく終わったと座ろうとした瞬間、
『たけみー？』という大唱和が、僕の耳朶を突き刺した。
僕は、唖然として頭を上げると、女バスの中から、一人の先輩が立ち上がった。
知らなかったよ。女バスの中に「たけみ」と言う名の人がいるなんて。
呆然とする僕に、夏子さんが、「泡多めにしとくね」とウィンクしてビールを注いでくれた。
お蔭で、ビールの量は、見た目よりも少なくて済んだ。僕の瞳には、彼女が観音菩薩のように見えた。
僕は、気合を入れて、５杯目のビールを、パンパンに張り詰めた胃袋に、何とか流し込んだ。
鬼のような自己紹介を終えて座ると、吐き気が胸元に込み上げてきた。口に手を当てて、我慢した。
「ちょっと、タケ。こんな所で吐かないでよ。吐くなら、トイレに行ってきなさい。全く、あのぐらいで吐くなんて、まだまだヒヨッコだな。それに、」
僕は、彼女の小言の途中で、一目散にトイレに走った。
便器に這いつくばると、流れ落ちる滝の如く、口から溢れ出てきた。純白の便器に貯まった吐瀉物はミルクとビールが混じった、濁った琥珀色の液体だった。
胃でトグロを巻いていた液体を、吐き切ると気分もすっきりした。
便器に跪（ひざまづ）いたまま、トイレットペーパーを無雑作に引き千切り、汚れた口元を拭った。
便室から出ると、スーツ姿の中年男性が、立って待っていた。
彼は、擦れ違いざまに怪訝な視線を僕に浴びせてから、慌しく便室に入って行った。
申し訳ないと思った反面、僕だって好きこのんで吐いていたんじゃない
洗面所で、嗽（うがい）を、二度三度と繰り返して、歯茎に付いた吐瀉物の残骸を濯ぎ流した。
鏡に、顔面蒼白の自分が映っていた。眼だけが、妙に充血していた。
両手で水を受けて、ジャバジャバ顔を洗った。
第５７章 終了
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