第５５章 地下鉄の不思議
大学の講義を受けて、放課後はバスケの練習という単調な日々が、数日続いた。
僕の中では、ウェイトトレーニング主体の部活の練習よりも、露渕との朝練が、最も楽しい時間だった。
朝練のラストには、毎回、自販機のジュースを賭けて、１対１の勝負をした。
実は、朝練の初日に、３点シュートの５本先取で勝負をしたが、１対５という圧倒的な差で負けので、単純な３点シュートの勝負では敵わない、と悟り、１対
１の勝負に変えてもらった。「岳実、お前は、シューターとしてのプライドはないのか？」というもう一人の僕の声が聞こえないでもなかったが、少しでも露渕
に”勝てる”可能性がある勝負をしたかった。
１対１の勝負をして分かった事があった。卓抜したオフェンスに比べて、ディフェンスは予想よりも平凡だった。彼のシュートやドリブルの技術は、僕から見
れば遥か雲の彼方だったが、ディフェンスに関しては、大差なかった。とはいえ、１対１でも毎回負けてしまい、ジュースを奢る破目になった。
しかし、いつか必ず勝ってやるという思い抱いて、露渕と勝負した。その時間は、嫌な事や心配事を全て忘れて、勝負に没頭できた。
４月も、穀雨の頃を過ぎた土曜日に、”新歓コンパ”という、新人を歓迎する飲み会があった。
午前の練習後に、先輩からススキノの飲み屋の場所を教えてもらったが、迷わずに行ける自信がなかったので、露渕と一緒に行くように頼んで、北１８条駅前のコンビニで待ち合わせをした。
以前、北１８条駅の駐輪場に自転車を停めた時に、鳩に糞を付けられた事を思い出したので、自転車はアパートに置いて、徒歩で出かけた。
待ち合わせの１０分前に、コンビニに着いたが、露渕の姿は見えなかった。
本売り場に行き、週刊誌を手に取った。
紙面には、仰々しく芸能人の噂話や政治家の汚職事件の記事が書き立てられていた。僕は、立ち読みをして彼を待っていると、時間きっかりに、露渕がコンビニに入って来た。
「早いね。若しかして、結構、待ってた？」
『なんも、さっき来たばっかしだ。』
「俺、牛乳、買うけどさ、お前はどう？」
『牛乳？んでも、これから飲み会だべ？』
「先輩から聞いたんだけど、牛乳を先に飲んでおくと、胃に粘膜が出来て悪酔いしないらしいんだ」
『ふーん、それは、知らねがったな。んだば、我も飲むがな』
５００ｍLの紙パック牛乳を二つ買った。
コンビニを出ると、露渕は、ポリ袋から、牛乳を一個取り出して、僕に手渡した。
「タケ、早飲み競争しようぜ」
『いいよ。んで、勝ったらどうするの？』
「じゃ、負けた方が、ススキノまでの地下鉄代を出すってのはどうだ？」
『いいよ、んだば、勝負するべ』
紙パックの口を開けてから、互いに顔を見合った。
露渕は、牛乳を口の前に構えて、逆の手で３本の指を立てた。
僕も彼に倣って指を３本立てた。
リズムを合わせて、３、２、１、０とカウントダウンをした。
僕は、喉を開けっ放してにして、一気に胃袋に流し込み、５秒足らずで、飲み切った。露渕を見たが、まだ飲んでいる途中だった。
僕は、空になった牛乳パックを高々と掲げて、わざとらしく小躍りして勝利を誇示した。
露渕は、苦しそうな表情をしながら必死に飲んでいた。口元から溢れた牛乳は、白い筋を作って首に垂れていた。
『あれ、おかしいな。まだ飲んでらの？』と皮肉めいた余裕の言葉で茶化した。
露渕は、飲み終えると、肩を揺らしてハーハーと大きく息をした。
「あー、しんどかった。それにしても、お前、随分と早かったな？」
『まぁな、早飲みは昔から得意なんだ』
「何だ、それなら早く言ってくれよ。知ってれば、早飲み勝負は挑まなかったのに。まぁ、良いか、朝練では、いつも奢ってもらってるからな。タケにも、たまには、花を持たせてやらないとな」
露渕は、牛乳まみれの白い歯を見せてニヤリと笑った。
『くっそうー、来週は、絶対、１対１で勝ってやる。まぁ、良いや。取り合えず、今日の所は、ススキノまでの電車代はただだな』と、露渕の肩を軽く叩いた。
地下鉄の階段を下りている時、急に風が吹き上がってきた。
前を歩いていた女性の長髪が、メドゥーサの髪のように、ウネウネと空中蛇行して暴れまわった。
メドゥーサの髪に驚いていると、「間もなく、一番ホームに真駒内行きの電車が参ります」というアナウンスが流れたので、急ぎ足で階段を駆け下りた。
すると、露渕が、後ろから声を掛けた。
「タケ、１本ぐらい遅れても、まだ十分間に合うから、慌てなくても大丈夫だよ」
僕は、階段の途中で立ち止まって、振り返って、露渕が降りてくるのを待った。
券売機の前で、僕は、わざとらしく路線図を見上げて、『ススキノまで、何ぼかなぁ？』と呟いた。
露渕は、百円玉を三つ入れて、ススキノまでの切符を２枚買った。
お釣が、ジャラジャラと音を立てながら出てきた。
「それにしても、札幌の地下鉄は高いぜ。初乗りで１８０円もしやがる」
『ふーん、１８０円は高いんだな…』
僕の故郷には地下鉄がなかったので、相場がどれくらいのものなのか、さっぱり分からなかった。
「東京は、もっと安いぜ。まぁ、仕方ねぇか。ほらよ、切符だ」
『ごっつっあんです』
僕は、心の字を切ってから、切符を受け取った。
自動改札機を通って、ホームで電車を待った。
５分ほどして、「間もなく、一番ホームに真駒内行きの電車が参ります」とアナウンスが流れた。
チュイーン、チュイーンという、線路上を電気が走るような不思議な音が聞こえてきた。
暗いトンネルの奥からライトを光らせた電車が、こちらに近付いて来た。電車がトンネルからホームに出ると、速度を落としてゆっくりと、僕の方に向かって来た。
その時、札幌の地下鉄に感じていた違和感の正体に、ようやく気が付いた。
車輪が、ゴムタイヤだった。電車の車輪といえば、普通は、金属製だ。少なくても、今までに、ゴムタイヤで走っている電車を見たことがなかった。濃霧が、一気に晴れたような心持ちだった。
電車に乗ると満席だった。
僕と露渕は、三角形の吊革の取手に掴まった。
『いやー、魂消だな。札幌の地下鉄ってゴムタイヤなんだな』
「そうなんだよ。俺も最初見たときは、ちょっと吃驚したぜ」
『ツユは、他でゴムタイヤの電車を見だことあるが？』
「いや、ないね。札幌で見たのが初めてだ」
『何でだべな？』
「さぁ、理由は良く分からないけど、寒いとか雪が多いってのが関係あるんじゃねぇのかな？まぁ、ゴムタイヤの電車は、振動とか騒音が小さい気がするから、俺は、わりかし好きだけどな」
『確かに、静かだし乗り心地も良い気がするなぁ』
僕は、自分の事でもないのに得意気に頷いた。
北１２条駅、札幌駅、大通駅でも、たくさんの人が乗り込んで来た。
ススキノ駅に到着する頃には、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車になり、利き過ぎた暖房と人の群熱で暑苦しくなった。ススキノ駅に到着すると、車内に押し込まれていた乗客が、我先にと出口へと進んだ。
蜘蛛の子を散らすように、人間がホームへ脱出して行った。ホームは、下車した乗客で再び満員状態になった。僕は、露渕から逸れないように彼の背中にぴったりくっ付いて、小刻みに歩を進めた。
「これだから、土日のススキノは嫌なんだよな」と露渕が、愚痴を言った。
ホームから階段、そして、改札口まで人波は続いていた。
自動改札機を通り過ぎた露渕は、後ろの僕を気にも留めずに足早に歩き、出口の階段を上がっていった。 僕は、置いていかれないように、彼の後ろについて歩いた。
第５５章 終了
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