第５２章 笑う少女
講義前のシュート練習を終えて体育館を出てから、教養部のロビーまで二人で一緒に歩き、それぞれの講義へ出席するため、そこで別れた。
僕が受ける講義は、文学講読だった。シュウも履修していたので、彼も来る予定だった。
ロビーから伸びる薄ら寒い廊下を、足早に歩いてから３階まで上った。
講義室は暖房が入っていて温かかった。
講義室を見回してみたが、熊のような巨体は、見当たらなかった。
彼が来た時に、僕のいる場所が分かるように、入口近くの席に座ることにした。
菜の花色のスーツに、柄物の開襟シャツという派手な格好をした講師が入ってきた。頭髪はポマードで照り照りに塗り固められて、凡そ文学者のイメージとは似ても似つかぬ装いで、場末のチンピラか、売れない手品師といった感じだった。
講義内容は、梶井基次郎の「檸檬」という作品についてだった。
ポマード講師は、壇上の椅子に足を組んで座り、雑音が混じるマイクを握って、濁声で「檸檬」を音読した。 耳障りな朗読を、右から左へ聞き流していると、シュート練習の心地良い疲れが、僕の瞼に優しく手を翳した。
暖房の利いた講義室で、迷い夢にさまよっていると、誰かが僕の肩を叩いた。
ようやく、シュウが来たかと思い、目を開けると、女学生が僕の顔を覗いていた。
「確か、あなた、タケミ君だよね？」と、女学生が耳元で囁いた。
『うん。タケミです』
どこかで見たような顔だが、はて、誰だったかな？僕は、寝ぼけながら考えた。
「シュウ君、まだ来てないのね」
その言葉を聞いて、ようやく思い出した。
先日、シュウとススキノ駅で待ち合わせした時に、シュウの隣にいて、少しだけ会話を交わした子だ。確か名前は、琴乃と言っていた。
『多分、寝坊だと思うよ』
「えー、信じられない。今日は、絶対に講義に出るって言っていたのに」と唇を尖らせた。
『まぁ、いつもの事だから、心配しなくても、そのうち来るど思うけど…』
「所で、タケミ君は、講義の始めから出てたの？」
『うん。一応、始めから出席してだよ』
「偉いね」
『偉くはないよ。見での通り、居眠りしてたからね』
「ごめんね。気持ち良く寝てるところを邪魔しちゃって」
『むしろ起こしてもらって良かったよ。琴乃ちゃんに、起こしてもらってねぇば、最後まで寝てだがも知れねぇからな』
「あらっ、タケミ君、私の名前を覚えていてくれたの、嬉しいなぁ」
琴乃は、顔を間近に寄せて、微笑みながら僕を見つめた。
無防備な程に、彼女の瞳、唇が近付いたので、ドキっとした。
僕は、彼女への照れを隠すため、教壇の方を向いて、あまり興味がない講義に耳を傾ける振りをした。
講義を聴いていると、隣に座っていた琴乃が、何やらクスクスと小声で笑い出した。
彼女を見ると、一方の手を口に当てて、そして、もう一方の手で腹を押さえて、笑い声が洩れるのを必死に抑えてた。
『どうしたの？』
「ごめん、可笑しくて」
『何が？』
「あなたがよ」
『えっ、我が？』
「そう、あなたが可笑しいの」
『我のどこが、可笑しいんだ？』
僕は、自分の何が、琴乃に笑われているのか、見当が付かなかったので、必死に笑いを堪えている彼女の姿を、ただ眺め続けていた。
ようやく笑いが治まってから、彼女は、姿勢を正して、深呼吸をしてから話した。
「だって、タケミ君、自分で自分の胸を揉んで気持ち良さそうな顔してんだもん。そりゃ、可笑しいさ」と、また笑い始めた。
琴乃に言われて、やっと気が付いた。僕は、無意識の内に、筋肉痛になった胸の筋肉を、マッサージしていたようだ。肩凝りの人が、無意識に肩を揉むような
ものだ。自分では、筋肉をほぐしているいう自覚しかなかったが、端から見れば、確かに、胸を揉んで、気持ち良さそうにしているように見えたかもしれない。
『いやー、胸が筋肉痛でさ…』と言い訳をしたが、彼女の笑いを止める事はできなかった。
笑い続ける彼女には、どんな弁解も何の薬にもならないなと諦めて、自分の頭をポリポリと掻くしかなかった。
講義終了時間よりも早めに、文学講読の講義が終わった。
結局、シュウは、顔を出さなかった。
「シュウ君、結局、来なかったね」と琴乃が呟いた。
『シュウは、理数系の講義は、真面目に出るんだばって、文科系の選択科目は、時々、サボるんだ』
「ふーん、そうなんだ。この前、サークルで会った時に話した時は、偉そうに、どんな講義も絶対出るって言ってたのに、いい加減だな」
『まぁ、ちょっといい加減な所はあるかな。んでも、シュウも今日は、眠かったんだべ。まぁ、許してやってけれ』
「しかたない。勘弁してやるか。今日は、こうしてタケミ君とも会えたしね」と、にっこりと笑った。
僕は、その言葉に照れて頭を掻いた。
「タケミ君、次は、何か講義があるの？」
『いや、次は、空いているよ』
「それは、良かった。私も、次は空き時間なのさ。大学の１８条門の近くに、私のお気に入りの喫茶店があるんだけど、一緒に行かない？」
『うん、良いよ』
「本当、嬉しいな」と朗らかな笑顔を見せた。
第５２章 終了
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