第９９章　甲高いサウンド

「タケ、ちょっと良いかい？」と言うシュウの言葉で目が覚めた。
　車窓には、いつもの地上の風景が広がっていた。大空があり、田畑があり、そして、集落があった。長閑な春の風景が流れていた。どうやら、津軽海峡の地底世界に閉じ込められずに、無事に地上世界へ戻ってこれたようだ。
『もう青森さ着いだんだな?』
　僕は、シュウの肩から頭を上げたまま言った。
「いや、青森駅はまだだ。もう少しで蟹田（かにた）駅に着く。悪りぃけんど、ちょっくら、トイレ行かしてくれや」
『ごめん、ごめん。我も、ついウトウトしてしまったよ』とシュウの肩から頭を上げた。
「そいじゃ、ちょっと通らしてくれや」
　シュウは、席から立ち上がった。
　僕が座ったままでは、シュウが通過できそうもなかったので、廊下に一旦出てからシュウを通した。
　シュウは、股を窄（すぼ）めて、小走りでトイレに向かっていった。

　シュウがトイレに行って間もなく、蟹田駅で停車した。ホームで待つ客は疎らで、片手で数えるられるぐらいだった。僕らが乗っている車両に乗り込んできた客も、降りた客もいなかった。
　静かな停車だった。それは、人が乗り降りする為に停まっているというよりも、列車自身が、長い海底トンネルを抜けて、休憩するために停まっているように感じた。
　車窓が再び動き出した。
　長閑で平和な津軽半島の景色だった。列車が海岸に出ると、穏やかな陸奥湾の海が広がっていた。海原の彼方には、春靄（はるもや）に霞（かす）んだ下北半島の山々が見えた。山並みには、白い羊雲の群れが漂っていた。
「蟹田ってのは、風の町だね」と言った津軽出身の小説家がいたが、今日の蟹田は、穏やかな春の陽光が降り注ぎ、浜風は治まっていた。凪波（なぎなみ）が銀の鱗のように煌（きら）めく陸奥湾は優しかった。
「蟹田ってのは、凪の町だね」と車窓に向かって呟いた。

　 二日酔いの頭も正常に戻りつつあったが、もやもやとした眠気の渦が、土星の環（わ）のように、僕の頭の周りを回っていた。このまま、三度寝に身を任せよう と思ったが、シュウが戻って来たら、席を立って通してあげないといけない。眠気を振り払うように、首をブルブルと振ってから、眉間を指でマッサージした。
　ウトウトしながら、シュウを待ったが、中々戻ってこなかった。１０分しても戻ってこなかったので、少し心配になった。二日酔いは大丈夫とは言っていたが、連夜の飲み続けで、腹を下したのかもしれないなと思った。
　 シュウに比べれば半分ぐらいのワインだというのに、僕だけ死にそうな程、二日酔いになった。かたや、シュウは健やかに、鱈腹（たらふく）朝飯を食べてい た。生まれながらの体質とは知ってはいても、何だか損な気分になっていた僕は、シュウも人の子だなと、ちょっと嬉しく思った。

　１５分待っても、シュウは戻って来なかった。流石に、彼の身に何か良からぬ事が起こったのではないかと、心配になった。席を発って、トイレに向かった。
　トイレの扉に付いた取手の根元にある穴は、使用中を示す赤色になっていた。シュウがまだ入っているようだ。恐る恐る、トイレの扉をノックして見た。内側から、トントンと返事のノックが返って来た。僕は、扉に顔を近づけて、声を掛けてみた。
『おーい、シュウ。大丈夫だが？』
　返事がない。おかしいなと思い、少しだけ声を大きくして言った。
『シュウ、大丈夫だが？余りにも長いがら心配して来てみたんだ』
　返事がない。返事の代わりに、中から聞えてきたのは、尿が便器に当たる、あの甲高いサウンドだった。
　僕は、もう一度、ドアをノックしてみた。すると、扉の向こうから咳払いが聞えてきた。それは女性のように思えた。
「やべぇ、人違いだ」と焦った。額には、汗が滲んできた。
『すいません、間違えました』と謝って、その場を離れようとした。
　しかし、待てよ。シュウは何処に行ったんだ?彼が向かったのは、こちらの方向で間違いはない。若しかしたら、ここのトイレに先客が居て、もう一つ奥の車両にあるトイレに行ったのかもしれない。
　僕は、そそくさとその場を離れて、もう一つ向こうのトイレに向かった。
　トイレは、二両先の車両にあった。そこのトイレも使用中で、誰かが入っていた。僕は、廊下にいる人にでも話しかけるようにして、『シュウ』と言ってみた。すると中から、
「おっ、若しかしてタケかい？」と返答があった。
　間違いなくシュウの声だった。
『んだ、我だ。遅いから来てみたんだ。大丈夫だが？』
「いやー、助かったよ」
『どうした、気持ち悪くなったんだが？』
「困った事に、トイレットペーパーが切れちまっててさ。すまねぇけど、車掌さんに言って貰って来てくんねぇかい」
『ありゃまぁ、紙切れか。そりゃぁ、しかたねぇな。ちょっと待ってで』
　僕は、デッキに書かれた車両図を見て、車掌室のある車両に急いだ。
　車掌に事情を説明して、トイレットペーパーを持って来てもらい、トイレの扉をノックして言った。
『シュウ、紙を貰って来たよ』
「ありがとう」と言う声と一緒に、錠が外れる音がした。
「悪りぃけんど、紙を渡してくれ」
『はい、どうぞ』と、腕だけをドアの隙間に突っ込んで、トイレットペーパーをシュウに手渡した。
　扉の向こうから、何度かトイレットペーパーを巻き取る音が聞え、水を流す音が聞えた。
　トイレの扉が開き。シュウが、入口の上に頭をぶつけないように、頭を下げて、のっそりと廊下に出てきた。
「どうも、私どもの不手際で申し訳ございません」
　傍らにいた車掌が、低頭になって謝罪した。
「頼みますよ、本当に」
「全く、すいません」と車掌は、年下の僕たちに向かって、何度も頭を下げた。
「今後、紙を切らさないように注意して貰えれば良いですよ。まぁ、こちらも確認してから用を足せば良かったんですけど、何分、余裕がなかったもんで。今回の事は、紙と一緒に水に流しましょう」
　シュウは、以外に、呆気（あっけ）らかんとしていた。

　僕らは、トイレでのすったもんだについて喋りながら、席に戻った。
　 途中、僕らの席に近いトイレの前を通り掛かった時に、扉が開いて女性が出てきた。品の良い服装をした２５歳くらいの女性だった。彼女と思わず目が合った。 僕は、シュウと雑談していた口を噤んで、目を伏せて彼女の前をそそくさと通り過ぎた。僕の耳朶（じだ）の奥には、あの甲高いサウンドが響いていた。

第９９章　終了

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