第９５章　夜桜の宴

　太陽は完全に落ちていた。街灯がポツリポツリと点った五稜郭の道を歩いた。堀に架かる橋を渡る際、下を覗き込むと、映った街灯が煌いていたが、堀の奥は深い闇となっていて、吸い込まれてしまいそうな気がした。
　郭内の桜の木の下を通り抜けて、テントまでたどり着いた。回りには街灯もなく、真っ暗だった。
　シュウが、ランタンランプを取り出し、一輪の桜の手前に灯し、テントの入口を開けっ放しにして、テントの中内から桜の花が見えるようにした。
「よし、これで花見の準備はOKだ」と得意げに肯いてから、顔を綻ばせながらリュックをまさぐり、缶ビールを取り出した。
「じゃっじゃーん。北海道最後の夜は、やっぱり北海道限定のクラシックだな」
　シュウは、自慢げにビールを僕に見せてから、大沼で買った箱団子と、鯉の甘露煮を取り出して、テント内に並べた。
「よし、タケ、それじゃ、始めるとするかい」と、缶ビールを僕に手渡した。
「えー、ではここ五稜郭に於きまして、高らかに桜の開花宣言をしたいと思います」とビールを頭上に掲げた。
『んでも、函館では、まだ開花宣言は出されてねぇんだべ？』
「だからこそ、俺たちがこの桜の花の前で、開花宣言をするんだよ。見てみ、一輪だけかもしんねぇけど、桜は桜だに。綺麗に咲いてるだよ、見てみほ」と、ランタンでライトアップされた一輪の桜を指差した。
　確かにシュウの言う通りだ。どこの馬の骨とも分からぬ人間が、手前味噌で作った基準で、開花宣言をするのは、桜に失礼だ。一輪咲いた。美しく、そして、力強く。それでいいではないか。
「それでは、五稜郭の桜の開花を宣言します」
『同じく、開花を宣言します』と、２人で缶ビールを頭上に掲げた。
「桜に、かんばーい」
『かんぱーい』と、桜の宴が始まった。
　
　シュウは、いつもの調子でビールを開けていった。酒の摘みにしていた大沼の団子や甘露煮も、先刻、寿司をたらふく食ったとは思えない程、旺盛な食欲で食べていった。
　ビールのアルコールが、僕の体内をグルグルと駆け巡った。温泉上がりで体が渇いている事もあって、半分も飲まない内に、ほろ酔い気分になってきた。シュウの持ってきた鯉の甘露煮に箸を付けては、喉を鳴らしてビールを飲んだ。
　ふと脳裏に、今朝、札幌駅で琴乃が泣いている情景が鮮烈に蘇ってきた。
『今朝、札幌駅で琴乃が泣いてらっけな…』
「そうだな。あいつが泣くなんて余程の事だな。若しかしたら、別れるかも知れねぇな」
『別れる？まさか。泣くほど好きなのに、なして別れるっていうんだ？』
「そうかい？俺には、あの涙が一時の別れが辛くって流している涙には見なかったな」
『我には、彼氏と離れてしまう事が、寂しくて泣いてるように見えだよ。琴乃はあの彼氏を本当に好ぎなんだよ。んだがら、離ればなれになるのが切なくて、琴乃は‥』と言葉に詰まった。
「どうした、タケ。もう、酔っ払っちまっただかい？」
『酔っ払ってなんかいねぇよ。ただ我は、遠距離になってしまう琴乃が可哀想で‥』
　琴乃と自分の境遇とが重なり、僕の涙腺を震わせた。
「あれれっ、タケって泣き上戸だったのか？」
『酒は関係ねぇよ』と俯いた。
　自分も予期していなかった感情の昂（たかぶ）りだった。シュウが、別れるなんて事を言うから、琴乃と自分の境遇が、ごちゃ混ぜになって、なんだか自分が洋子と別れるなければいけないような気がしてきた。
「まぁ、タケのその気持ちも分からんでもない。同じ遠距離恋愛をしている俺たちには、他人事じゃねぇからなぁ。俺も琴乃の辛さは分かるよ」と、自分に言い聞かせるように肯いた。
『んだべ、シュウだって、そう思うべ』
「離ればなれになる辛さは良く分かる。ただ、あの琴乃の目がなぁ」
『目？』
「あの目の強さが、俺には何かを決意したような目に見えただよ」
『それはきっと、彼氏をジッと見つめでらけんだべ』
「あの強い眼差しは、別れが辛くて泣いている女々しい目には見えなかっただよ。俺の勘繰り過ぎかも知んねぇしな。俺も女心は良くわからねぇから、偉そうなことは言えねぇだけんどな。こればっかしは、当の本人に聞いてみねぇとわからねぇな」
『んだなぁ。せば、連休明けにでも聞いてみでよ』
「えっ、俺が聞くのか？タケが聞いて見れば？」
『やだよ』
「それは、俺だって同じだよ」
『シュウなら、いつもの軽い調子で、ごめん、札幌駅で偶然見ちまったよって、感じで聞けるべ？』
「いやぁ、さすがに、それはちっと厳しいのう。借金と恋愛の話は軽々しく話さないのが俺の主義だからな。それに、あいつ機嫌損ねると、結構、怖いんだよ」
『んだば、まぁ適当に探りを入れでおいでよ。会ったら、我も探りを入れてみるばって…』
「探りを入れるかぁ、何だか適当にあしらわれて終わりのような気もするけんどなぁ。そうだ、妙案が浮かんだぞ」
『どんた妙案？』
「それは、これですよ、これ」と缶ビールを指差した。
『はぁ、ビール？』
「要は飲み会ってことだな。そんなに酒が好きって訳じゃねぇけど、飲み会だと上機嫌だし、みんなと饒舌に話してるから、一緒に飲みに行って話すれば、口が滑るかも知んねぇな」
『そっか、じゃあ、我がお酌するよ』
「じゃ、その役はタケに任せるかな。でも大丈夫かい？当然、注いだら注がれるよ。それが、暗黙のルールだからのう。あいつは、多分、タケよりは強いぜ」
『せば、お酌はシュウに任せて、俺は聞き役に回るよ』
「飲み役なら大歓迎だ。じゃ連休明けに、恋愛報告会っつうことで、３人で飲みに行こうぜ」
『３人のってことは、若しかして、我も話するんだが？』
「もちろん、オフコースだに。誘うのに、琴乃だけの恋愛話を聞かせろ、なんて言えねぇだろう？」
『まぁ、それもそうだな』
　そうは言ったものの、ゴールデンウィーク中に洋子に会えるかどうかが分からない状況で、恋愛報告会をするという気にはなれなかった。
「琴乃の話はおいておくとして。タケはどうなんだ？彼女とは会えそうなのか？」
『それが、電話したんだばって、連絡が取れねぇんだ。多分、ヨッコの兄さんが入院している愛知の方さ行ったんだと思う』
「そうか、家族の病気じゃ仕方がないのう。それで、何の病気何だっけ？」
『目の病気だ。ヨッコも詳しくは教えてけねっがったばって、かなりの重病で失明の危険もあるらしくって、緊急手術が必要らしいんだ』
「そうか、それはおやげねぇなぁ」と、眉間に皺を寄せ沈痛な面持ちをした。
『んだがら、会えねぇかも知れねぇんだ』と思わず、愚痴がこぼれた。
「まぁ、洋子ちゃんに会えないのは寂しいか知んねぇけんど、洋子ちゃんが、一番辛いんだろうから、タケが、しっかり慰めてやるだな」
『気休めぐらいの慰めの言葉は掛けてやれるよ。んだばって、我も医者じゃねぇからや、治してやることもできねぇし』
「まぁ、それはそうだけんどさぁ、タケにも、何にかできることがあるだろう」
『できることねぇ‥あるのがな。会えねぇんだば、何の為に帰省するんだべなぁ。何だか、虚しくなってきたなよ』
「もし秋田で彼女に会えなかったとしても、両親と会えるんだから、親孝行でもするだな」と宥めるように言った。
『親孝行ねぇ、面倒くさいなぁ。ようやく親元を離れて、自由に生活してるっていうのに、１ヶ月ばかりで実家に戻っても、何だか窮屈だなぁ』
「おい、タケ。いい加減にしろよ」と、今まで見た事がないような鋭い眼つきで言った。
　その眼光に、たじろいだ。目を逸らそうにも、逸らすことができなかった。
「確 かにお前は医者じゃねぇから、人様の病気は治せねぇ。そんこたぁ、誰だって百も承知だよ。だけんどさ、お前は洋子ちゃんの彼氏だろう。兄貴が重病で苦しん でいる。そして、久々に会えると思っていたお前とも会えない。一番寂しい思いをしているのは、洋子ちゃんだろうが。そういう時にこそ力になってあげるのが お前の仕事だろうが。それなのに不貞腐れたような事ばっかり言いやがって。挙句の果てに、親孝行も面倒くさいだと。甘えるのもいい加減にしとけや。親はい つ死ぬか分からんぞ。筑紫だって言ってただろう。奴にはもう親父はいねぇんだよ。うちの親父だって、去年、癌の手術をしたんだ。幸い手術は成功して、今は 良くなったけんど…」
『ごめん、我が悪かった。愚痴ばっかり言ってごめん』
「病気を患った人が一番辛い。そして、家族だって物凄く辛いん だ。それを分かって欲しかったんだ。だから、お前の両親が元気でいるってことは、お前にとって、とても幸せなことなんだ。俺やお前だって同じだ。人間、い つ死ぬか分からん。だから、今ある幸せを粗末にしないで、生きていこうや」と温和な笑顔で言った。

第９５章　終了

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