第９４章　谷地頭行き

　『大王烏賊（ダイオオイカ）』の巨大なイカに見送られながら店を出た後、函館の街を歩いた。夕闇に吹く港風が心地よかった。紅を帯びた夕空に、淡い黄金色の雲が棚引き、函館山がシルエットになっていた。

　寿司屋では、イカ以外も食べたが、何と言ってもイカが一番旨かった。イカを１０貫も食べたのは生まれて始めてだった。食べ始めから、８貫を立て続けに食べ、締めに２貫食べた。
　函館のイカの旨さは、驚きだった。内陸育ちの僕には、カルチャーショックだった。おそらく、海がない長野県で生まれ育ったシュウの驚きは、僕以上だろう。
「い やぁ、本当に旨かったのう。先輩から、あの寿司屋のオーナーがイカ釣り漁船も持っていて、毎日、獲れたてのイカが出てくるから旨いよとは聞いていたんだけ んど、やっぱり、食ってみねぇ事には、どんだけ旨いかは分からねぇもんだのう。長野の実家の方じゃ、イカを食べるっつうと、大概は、塩丸イカなもんで、あ んなに新鮮なイカを食ったのは生まれて始めてだったよ」
『本当に、魂消（たまげ）だな。我もあんたに旨えどは思もわねがった。んでも、いきなり、シュウが５皿も頼んだ時は、びっくりしたな』
「待ち時間が長かったもんで、衝動食いみたいな勢いで、注文したんだ。それに懐に余裕がある訳じゃねぇからさ。それに、どんなに旨いイカよりも、不味いイクラの方が高ぇだろう。だったら、最高に旨いイカをいっぱい食べた方がいいと思ったんだ」
『確かに、それはいえるな。今日は、安かったばって、大満足だったよ』
「最初は、６貫ぐらいで満足できるかなと思ったんだけんど、１４貫も食っちまったわい。今日は、イカの新記録だ」
『我も新記録だよ。イカを１０貫も食べるなんて事は、もう二度とねぇがもな』
「さてと、旨いイカも腹一杯食ったし、テントに戻るかい？」
『もう、帰るの？せっかく、函館来たのに、夜景を見に行かねぇの？』
「ありゃ、カップルで見に行くもんだろう」
「せっかく函館さ来たのに、夜景を見ねぇのは、勿体ねぇなぁ」と食い下がった。
『だけんど、若い男が２人で行っても、ホモに間違えられるのが落ちだよ』
　男２人でテントに泊まるの方が、ホモに間違えられるよ、と突っ込みたかったが、言わずに腹に収めた。
「んでも、このままテント帰るのも、つまんねぇよ」
『確かに、それもそうだな。それじゃぁ、温泉でも行くか』
「温泉かぁ。大沼のサイクリングで、結構、汗かいたから、それも良いか」
　僕は、温泉で手を打って、夜景は諦めることにした。

　北の港町は徐々に暮れ泥み、函館山のこんもりとした山影は、空の残照を背にして漆黒を深めていた。函館山頂に立ち並ぶアンテナ塔は、黒い剣山のようなシルエットで紅空を突き刺していた。
　おそらく、あの山頂には、多くの人が集い、函館の夜景を待ちわびているのだろう。そう思うと、諦めた夜景への思いが蘇ってきた。
　夕闇が深くなるにつれて、街灯りが増え始め、心地よかった夕風も冷たくなってきた。

　僕らは、温泉に行くため、路面電車が来るのを待った。
「どっく前」と行き先を額に誇示した電車が到着した。車体は水色で、函館山や洋館を背景にして子供達が描かれていた。とても微笑ましいイラストだったが、行き先が違ったので、乗らなかった。
　数分後、「谷地頭」と行き先を額に誇示した電車がやってきた。車体は白色で、エメラルドグリーンの縞が入っていた。
　札幌にも路面電車はあるが、あまりぱっとしない地味なデザインだ。それに対して、函館のは、色々なデザインがあり、見る人を飽きさせない。
　「谷地頭」行きに乗ると、電車は、五稜郭とは反対の方向に進んだ。
　僕は、電車に揺られながら、暮れなずむ函館の街を眺めた。

　やがて、終点の谷地頭の停車場に到着した。
　電車を下りると、茜空を背に、函館山が近くに迫っていた。
　民家や商店が建ち並ぶ街を歩くこと、数分で温泉に到着した。温泉宿というよりは、巨大な銭湯のようだった。昭和の香りを色濃く残す建物で、どことなく函館駅に似た匂いがした。背後には、函館山が、温泉を見守るようにドッシリと構えていた。
　温泉の玄関には、靴箱に入りきれない靴が、野放図に脱ぎ捨てられていた。子供の小さな靴、スニーカー、サンダル、革靴、そして、ゴム長靴。十人十色の靴が、入り乱れて散らばっていた。
　建物は広かったが、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
　 くすんだ壁に、色褪せて破れかかったポスターが張ってあった。小麦色に焼けたビキニの若い女性が、ジョッキビールを片手に笑みを浮かべている。頭には、ハ イビスカスの花。背後には白い砂浜と青い海が広がっていた。温泉や銭湯に行くと、この手のポスターをよく見かける。しかし、今だかつて、海水浴に行って、 ビールを飲み歩いているビキニギャルを見たことがない。
　広い脱衣所の天井は、焦げ茶色に黒ずんでいた。長年に渡り、客の煙草けむりのせいだろう。今も僕の横で、老人たちが、火照った顔で椅子に座り、世間話を交わしながら、美味そうに煙草を吹いてる。
　脱衣所では、温泉臭は全く感じなかった。その代わり、煙草の匂いとトイレ臭が漂っていた。便器にこびり付いた糞尿の滓の発する臭いだが、それは、人間の獣臭でもある。バラのような芳しい匂いではないが、妙に安心感を誘うのは、その臭いに、人間を感じるからだろうか。

　脱衣所には、衣類を入れる為の木の棚と、プラスチックの篭が置かれているだけだった。使い込まれた木枠の端は、擦り切れて木片がささくれ立っている所もあった。鍵付のロッカーなどという洒落たものはなかった。
　 隣に、幼い兄弟２人と父親がいた。父親に服を脱がせてもらった兄弟は、振りチン姿のまま、追いかけっこを始めた。父親は軽く呼び止めたが、興奮して走りだ した兄弟には効果がなく、広い脱衣所を所狭しと、はしゃぎ回った。父親は、自分の衣服をそそくさと脱いでから、部屋をぐるっと一周して戻ってきた兄弟を 叱った。
「走るなって言ってるべ、本地（ほんじ）ねぇ童だな。何ぼ言っても聞かねぇと、ゲンコツすぞ」
　叱られた兄弟は、罰の悪そうな顔で俯きながら、父親に見つからないように目配せをして、にやけた。
　洗面道具を携えた父親が浴室へ向かうと、カルガモ親子のように列をなして、浴室へ入った。
　函館の人の言葉を耳にして、東北と似ていると感じた。札幌とは明らかにリズムが違っていた。札幌では言葉の疎外感を感じたが、函館では親近感を感じた。温泉に浸かる前に、少しだけ心が温まった。

　洗面道具を持参していなかったので、番台でタオルを買って、浴室に向かった。
　浴室に入ると、その広さにびっくりした。大浴場を宣伝文句にしている温泉はよくあるが、ここの広さは今までの温泉の比ではなかく、バスケットボールのコートよりも広かった。将に、大浴場と呼ぶのに相応しい。
　この広さがあれば、さっきの兄弟も思いっきりかけっこができるな、と思いつつ、彼らの姿を探して見たが、余りに広い浴室と、湯船から濛々と立ち上がる湯気のせいで、見つけられなかった。
　入り口付近に積み上げられていた座台と洗面器を持って、蛇口の前に座り、頭からお湯を被った。浴槽も広く、まるで水泳のプールのようだった。違う所は、お湯が透明ではなく赤茶けた色をしている所だった。

　お湯に浸かろうと、足を付けたが物凄く熱かった。風呂は熱い方が好きだったが、ここのお湯は熱すぎた。函館の人は、熱いお湯が好きなようだ。
　老人たちは、何食わぬ顔で気持ち良さそうに肩まで浸かっていた。隣で、肩までお湯に浸かっていた恰幅のよい老人は、熱がっている僕を見て、鼻で笑った。その表情が、「こんな湯にも入れないなんて、情けない若造だな」と言っていた。
　僕は、湯船の縁に座り、足先から膝までを入れて、体を馴染ませた。それから、徐々に腰まで入れた。褐色の熱湯が、感じ易い腰の辺り皮膚をビンビン刺激した。我慢できなくなって、再び足湯に戻った。
　しばらくしてから、再び、ゆっくりと湯の中に沈めていった。熱さに顔を歪めながら、肩まで浸かると、溜息がと漏れた。函館の港風で冷えていた体が、芯から温められていく感じが心地よかった。
　手でお湯を掬って嗅いでみたが、硫黄臭は感じなかった。海の近くのせいか、何となく潮の香りがした。それから、一舐めしてみると、強烈にしょっぱく、海の味がした。
　温泉に浸かりながら、取り留めのない事を考えた。もし、温泉の地下水脈が海底と繋がっているなら、僕は、この温泉と海水を介して、津軽海峡と繋がっている。そうだ、僕は今、津軽海峡の一部となっているんだ。
　そんな妄想に耽（ふけ）っていると、温泉の熱さが、延髄を越えて大脳新皮質まで達してきた。これ以上は、のぼせてしまうと、湯船から脱出した。皮膚は、火照って赤々としていた。
　洗い場に座り、ボーっとした。体中の汗腺から汗が滲みだし、心地よい脱力感に包まれた。
　暫くすると発汗が治まってきた。それから、タオルで、寒風摩擦をするように、ゴシゴシと体を擦った。洗い場の蛇口を開いて、桶にお湯を満たして、ザバーと頭から被った。
　タオルをきつく絞ってから、頭や顔を拭いた。また絞ってから上半身を拭いた。もう一度絞ってから、最後に下半身を拭き、出口へ向かった。
　シュウが、浴室の床にゴロンと横になって寝ていた。大浴場の至る所では、シュウ以外にも、たくさんの人が寝転がっていた。
　
　着替えた後も、体の火照りがなかなか引かなかったので、扇風機の真ん前にある長椅子に腰掛けて、シュウが上がってくるのを待った。
　老人は、自動マッサージ器に深々と座り、機械の按摩を受けて、だらしなく口を半開きにして気持ち良さそうに目をつぶっていた。
　入浴前に走り回っていた兄弟が、父親と一緒に上がってきた。着替えをしてから、父親が、瓶の牛乳を３本買って、兄弟に一本ずつ与えた。３人は同じポーズで、首にバスタオルを掛けたまま、腰に手を当てて美味そうに飲んだ。
　ようやく、汗が引けた頃に、シュウが上がってきた。彼が着替えてから、瓶の牛乳を買って飲んだ。シュウはよほど喉が渇いていたらしく、ぐびぃーと飲んでから、もう一本。今度はコーヒー牛乳を買って飲んだ。

　番台を出ると、小学生ぐらいの姉と弟が祖母に連れてられて入ってきた。幼い二人は慣れたもので、勢い良く靴を脱いでから、脱ぎ捨てられている靴の 上をぴょんぴょんと飛び跳ねて、番台のおばちゃんに挨拶をして中へ入っていった。祖母は、番台のおばちゃんと、少し天気などについて立ち話をしてから、お 代を払って中に入っていった。
　実際に、ここの温泉に入ってみて分かったことがある。それは、たくさんの物が、しみついているということだった。 綺麗でもないし、趣向が凝らされている訳でもない。薄汚いし、ちょっと臭いくらいだ。人垢や湯垢、タバコのヤニもしみついている。だが、一番沁みついてい るのは、地元の人々の温泉を愛する思いだ。それが、ここの温泉の一番いい所だ。

第９４章　終了

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