第８９章　熊出没注意

　僕らは、土産物屋や民宿が軒を連ねる駅前通りに向かった。そこの通りは、「貸自転車」と書かれた幟が、何本も連なっていた。そこで、２台の自転車をレンタルしてから、大沼周遊道路へと漕ぎ出した。

　大沼周遊道路は、その名が示すように、大沼をグルッと取り囲むようにして造られた舗装道路で、自転車は勿論、自動車も走れるようになっていた。
　団子屋のお姉さんが教えてくれた軍川を過ぎると、静かな森林の中に入った。左手に広がっている木々の向こうに、大沼の湖面が見えた。右手には、洋風な木造りのレストランが、森に囲まれるようにして建っていた。
　ガードレール代わりに、白樺の木で造られた柵が並んでいた。如何にも北国の観光地らしい演出に思えた。
　
　ほどなくして、目の前に、水芭蕉が咲き誇る光景が広がった。
　 僕らは、自転車を降りて眺めた。湖畔に生える木々は未だ芽吹いていなかったので、林の上の方は色彩が乏しかったが、対照的に、林床は、水芭蕉の清白な花が 咲き競い、その瑞々しい青葉が彩りを添えていた。雪解け水は、木々の根元に小さな水溜りを無数に作っていて、水芭蕉の咲く林の中は、歩けない程、グジョグ ジョに濡れていた。
　水芭蕉は、樹木の新緑が咲く前に、愛らしい姿を見せつけていようとしているように感じた。人間の目が、森の新緑に移った頃を見計らって、グロテスクに姿を巨大化させて、子孫を残していく。そして、来年の春も、何食わぬ顔で、清楚な仮面を付けて、人間をだますのだろう。
「いやぁー、こりゃ凄いな。駒ケ岳も壮観だったけんど、ここの水芭蕉も壮観だな。あの人も、ここの水芭蕉が大好きだってつうのも頷けるな」と、水芭蕉に讃辞を送った。
『シュウの実家の方さは、水芭蕉は咲かねぇんだが？』
　僕は、遠回しに、探りを入れてみた。
「家 の近くでは殆ど見かけねぇのう。まぁ、県内にも水芭蕉の有名な所は、幾つかあるにはあるけんど、殆ど北信の方だな。これほど壮観に見れる所は、ないんじゃ ねぇのかな。いやぁ、一つ一つの花も清楚で、見てるだけで何だか心が澄んでくる気がするのう。まるで、あの人のようだ…」
　シュウは、目を輝かて臆面もなく言った。

　シュウは、信者になってしまったようだった。ただし、彼の場合、水芭蕉の信者というよりは、着物のお姉さんの信者と言った方が、適用だろう。遥々 （はるばる）、彼女に会うために、札幌から長野に向かっている途中だというのに、別の女性に夢現（ゆめうつつ）をぬかすとは、全く持って節操がない。
　僕は、シュウという人間は、無精で女っ気がないと思っていたが、予想外に、多情な男なのでは…と言う気がした。

　水芭蕉の森の縁を軽く歩いてから、自転車に戻り、サイクリングを再開した。
　湖畔林には、大小幾つもの水芭蕉の群生地があり、僕らは、のんびりと眺めながらペダルを漕いだ。
　周遊道路を走る自動車も疎らで、静かな森林の梢からは、野鳥の囀（さえず）りや、啄木鳥（きつつき）のドラミングの音が響いていた。駅前の喧騒とは打って変わって、怖いぐらいの静寂が森林に満ちていた。

　湖の対岸辺りまで来ると、駒ケ岳は沿道の樹木に隠れて、全く見えなくなった。
　辺りは、一段と人気がなくなった。道幅も狭くなり、沿道の木々の枝が道の上を覆い、野性味あふれるサイクリングとなった。さらに、日陰になった事と、湖面を渡る風のせいで、肌寒さを感じた。
　 「熊出没注意」の標識が、道路沿いに掲げられていた。注意しろと言われても、実際に遭遇してしまったら、どうしろというのだろうか？大声で歌いながらサイ クリングしなさいという事なのか？と文句を言いたい気分だった。その標識を見てから、お互い申し合わせた訳ではないが、２人の自転車のスピードが上がっ た。
　熊が出る場所から一刻も早く離れたいという気持ちで、一生懸命、ペダルを漕いだが、シュウの加速はそれ以上で、引き離された。
　必 死に自転車を漕ぐシュウの姿を見ていると、思わず笑いが込み上げてきた。以前、シュウと一緒に飲んだ時、「熊は神だった、偉大な生き物だ、俺は熊の気持ち が分かる」と豪語していた。それにも関わらず、いざ「熊出没注意」の標識を目にして、恐れをなして、しゃにむにペダルを漕いでいた。「熊が怖い」とは、決 して口にはしなかったが、自転車の加速がそれを物語っていた。

　標識が警告するように、道を囲む森林は原始のオーラを放ち、熊が出てきてもおかしくなかった。
　駒ケ岳神社や、駒ヶ岳への登山道の案内が出ていたが、シュウは、全く目も呉れず、どんどん進んでいった。
　大岩園地の案内板が出ていた。僕は、少し尿意を催していたので、
『シュウ、ちょっと、そこの大岩園地っていう所で、休憩ねぇが？』と尋ねてみた。
「もう少し行ってから、休憩しよう」と返事が返ってきた。
　擦れ違う人もない山道なので、いざとなったら道端で用を足してしまえば良い。僕らは、公演のトイレには寄らずに、先を急ぐ事にした。
　大岩園地には、百人力でもびくともしなそうな巨石が湖畔から湖面に散在していた。そこを通り過ぎた辺りから、道路の勾配がきつくなってきた。
　 今まで軽快に飛ばしていたシュウが、上りになって、急激に速度を落とした。僕も、飛ばしてきた疲れと、膀胱（ぼうこう）の自己主張で、自転車を漕ぐのが辛 くなってきた。それでも、坂の途中で止まると余計にきつくなると思い、必死に立ち漕ぎをした。大腿筋と膀胱をパンパンにさせながら、シュウを追い抜いた。 そして、彼より一足先に坂を上り切って、勾配が下りに変わる手前で、自転車を降りた。
　シュウは、巨漢を揺らしながら、顔を歪めて、追いついた。
『小便が漏れそうだから、ちょっと用足してくるよ』
「何だい、タケも小便したかったのかい？」と、肩で息をしながら言った。
『若しかして、シュウも？それだば、早めに言い出せば良がったな』
「ともあれ、まずは、連れションするか」
　僕は、湖とは反対側の木陰で用を足そうと思っていたのだが、シュウは湖面の方を向いたまま、用を足そうとしていた。
『ちょっと、シュウ。そっちで立ちションすれば、湖の方がら見えるんでねぇの？こっちで、するべし』
「大丈夫だ。あんな遠くから見えやしねぇだよ。それに、万が一、見えたとしても、俺たちのアソコまでは見えやしねぇだよ。それに、湖を眺めながらした方が、気持ちが良いべ。タケもこっちで一緒に連れションしようや」
『全く、しょうがねぇな。誰かに見られでも知らねぇぞ』
　僕は、渋々ながらシュウの横に並んで湖の方を向いて、立ちションをした。
　シュウの言った通り、湖を見下ろしながらの放尿は、開放感に満ちて、気分爽快だった。
　僕は、放尿しながら、シュウに聞いてみた。
『熊出没注意の看板で、びびったんだべ？』
「えっ、若しかして気付いてた…」
『あれだけ、急に自転車のスピードが上げれば、気付ぐよ』
「自 分では、うまく平静を装ってたつもりだっただけんどなぁ。正直言って、熊には会いたかねぇからな。生き物として、尊敬してるけんど、ご対面はしたかねぇか らさ。それに、本州にいる月の輪熊ならまだしも、北海道は、ヒグマだろう。でかくて凶暴だから、どうあがいたってかないっこねぇよだよ」
『まぁ、確かに、熊好きだからって、野生の熊に会ってたら、命が幾らあっても足りねぇな』
　僕らは、放尿しながら、ゲラゲラ笑った。

　貯水率が１００パーセントになっていた膀胱からの放水も、終わりかかっていた。一物の鴨首をプルプル揺らして、残尿処理をしていると、木立の切れ間から、湖上にカヌーが現れた。
　パドリングしていたのは、若い女性２人で、僕らの立ちション姿を見て、二人で顔を見合わせて、クスクスと笑った。
　僕は、大慌てで、社会の窓を閉めたが、シュウは、まだ気付いていないようで、自分の一物を見ながら、のんびりと、残尿を振り切っていた。小声で知らせると、顔を赤らめて社会の窓を閉じた。
　僕らは急いで自転車に跨って、その場を立ち去った。

　僕は、自転車を漕ぎながら文句を言った。
『んだがら、林の方でしようって言ったべっしゃ』
「いやぁ、ごめんごめん。まさか、近くでカヌーやってる人がいるなんて思わなかったもんで。それにしても、さっきの二人、笑ってたな」
『余程、間抜けな格好だったんじゃねぇの？』
「それで笑われたなら、良いんだけんどよ。何だか、俺らのアソコ見て笑われた気がしてよ。そうだとしたら、ちょっとショックだな。自信なくしちまうぜ」
『俺ら？我は、直ぐに気付いてパンツの中さ閉まったがら、多分、シュウのを見て笑ったんだど思うよ。うん、多分間違いねぇな。我は大丈夫だ』
「ちょっと、そんな言い方は、酷いじゃねぇかい」
『何てね、冗談だよ。シュウのアソコを見て笑ったんなら、あのお姉さん方は、今までの人生の中で、余程良い物を見て来たんだべ。シュウのは、それ程、他の人のモノに見劣りするもんでもねぇと思うよ、ハッハッハッ』
　僕は、下卑た笑い声を上げた。
「それ程って言い方が、気になるけんど、まぁ、良いや。湖に小便してたのを、きっと駒ケ岳の神様に見られんだろう。きっと、バチが当たったんだな」
『んだな、そういう事にしておくべ。んでも、出てきたのが熊でねくて、人間で良がったよ。あの状態で、本当に熊が出てきてだら、シャレにもならねぇよ』
「そうだな。もし、あそこで熊が出てきたら、小便漏らして逃げ惑ってた所だな。そう考えれば、あのカヌーの姉ちゃん達に、アソコを笑われたからって、どうって事ねぇだな」
　シュウは、自分に言い聞かせるように言った。

第８９章　終了

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