第８１章　出発の朝

　秋田へ帰省する日、僕はシュウと札幌駅で待ち合わせの約束をしていた。
　待ち合わせの時間は、列車の発車時刻の３０分前。時間を決める際、シュウは、１０分前でも大丈夫だと笑っていたが、彼はよく朝一の講義に遅刻してくるので、３０分前にした。
　
　１泊２日の旅だったが、僕のリュックの中身は質素だった。読みかけの文庫本。Ｔシャツとトランクス、そして、靴下。歯磨きと髭剃り。そして、厚手のセーターが１着。実家には生活する上での最低限の物は残していたので、余計な物は持たなかった。
　リュックをヒョイっと背負って、アパートの部屋を出た。
　吹き晒しの廊下からは、大学の広い農場が見渡せた。
　雪が消えた所は、黒々とした土が顔を出し、下草が萌え始めていた。
　農場の彼方に聳（そび）える手稲山は、どっしりと安定感のあるモノクロの山容で、春日朗らかな札幌の街を見下ろしていた。

　自転車に跨り、いつも大学へ行くのと同じように斜め通を走った。
　春の微風を受けながら、シュウと一緒の旅にウキウキしながら、ペダルを漕いだ。
　空は、晴れているような、曇っているようなどっちつかずの天気だった。天椀の頂には青空が広がっていたが、地平線は霞が立ち、白く濁っていた。それを眺めていると、何だかこっちまで、ぼんやりとした気分になってきて、欠伸が出た。
　北１８条門の手前にある抜け道から、大学のキャンパスに入った。
　札幌駅に行くには、交通量が多く信号も多い一般道を走るよりも、キャンパス内を通った方が、気楽で快適に行ける。
　大学の街路樹は、朗らかな春の陽を浴びて、芽吹きの予感を漂わせていた。
　自動車の交通がなかったので、僕は道路の中央線上を進んだ。広い道路のど真中を走っていると、この道が自分のプライベートロードのような気分になり、のんびりと鼻歌を歌いながらペダルを漕いだ。
　時折、小鳥達が忙しげに空中で囀（さえず）りながら、街路樹を渡っていた。
　クラーク会館まで行ってから、駐輪場に自転車を停めて、そこから、歩いた。

　クラーク館の隣に生協会館があり、その生垣の隙間から、キャンパスの外に抜け出た。
　静かなキャンパス内とは裏腹に、北八通は、自動車の往来が激しく騒音に満ちていた。
　交差点まで行くと、丁度良く、信号が赤ら青に変わった。アスファルトに描かれた白い梯子に沿って北八通を渡った。そこから札幌駅までは、阿弥陀籤（あみだくじ）のように、碁盤の目の街に沿って、南へ東へ、ジグザグに進んだ。
　駅前のコンビニに入り、パンと牛乳、チョコを買った。ささやかな朝飯を携えて、待ち合わせ場所の駅構内のドーナツ屋前に向かった。
　朝８時の札幌駅は大混雑していた。
　大きな旅行用バッグを、ガタガタ音を立てて引く人たち。
　小さなリュックを背負った幼子が、親の手を握りながら歩いている。
　ハイカーらしき中高年の夫婦が楽しそうに話をしている。
　制服を着た中学生達は、眠たげな顔をしながら先を急いでいた。
　ジャージ姿の高校生達は、練習試合にでも向かうのだろうか。
　ビジネスマンたちは、裾長のコートを靡（なび）かせて、足早に先行く人を追い越して歩いていた。

　待合場所には、シュウは、まだ来ていなかった。腕時計を見てみると、時間にはまだ余裕があったので、長椅子に腰掛けて、ささやかな朝飯を食べた。
　パンと牛乳を食べ終えてから、チョコの袋を開けて、１個ずつ口に放り込んで、ボリボリと音を立てて噛んだ。
　約束の時間が来ても、彼の姿はなかったので、人海うねる雑踏を見つめて待った。
　１０分ほど過ぎた頃、黒髪の人波に、頭一つ飛びぬけたシュウの顔を認めた。立派な寝癖を臆面もなく札幌駅にそよぐ世風に晒（さら）していた。黒い海面に浮かぶ一艘のタンカーのようにも見えた。
　シュウは、頭より高さの大きなリュックサックを背負っていた。シベリアンハスキーでも入りそうな大きさだ。柴犬でも頭が出てしまいそうな小さな僕のリュックとは対照的だった。
「いやー、お待たせ」
『何も、我もさっき来たばっかりだ。それにしても、随分と、でっけぇリックだな。何入ってらんだ？』
「テント用具が入ってるもんで、かなり嵩（かさ）張っちまったよ」
『シュウばっかりに、いっぺ荷物を持って貰って申し訳ねぇな』
「大丈夫だよ、こんぐらい。テント泊しようっつたのは俺なんだしさ、気にしねぇでくれや。それに、これは俺の荷物なんだから、俺が持つのが当たり前だに」
　僕の面前で語ったシュウの息が少し酒臭かった。
　
　札幌駅の改札を抜けて、ホームに向かった。
　ホームに上る階段に差し掛かった所で、シュウが、売店に立ち寄った。
　大きめのペットボトルに入った天然水と冷たい缶コーヒーを買い、その場で天然水の蓋を開けて、喉を鳴らして３分の１ほどを一気に飲むと、徐に音を立ててゲップをした。
「失礼、失礼。思わず出ちまったわい」と悪びれる様子もなく、笑いながら謝った。
　幅広い階段を登り、駅のホームに出た。
　銀色のボディにエメラルドグリーンのラインが伸びた列車が、プラットフォームに到着していた。
　一瞬、この列車に乗るのかと思ったが、僕らが乗る函館行きの特急列車「北斗」ではなく、新千歳空港行きの快速列車だった。
　出発の１５分前に来たのは良いが、ちょっと早く来過ぎたようだ。

　 ホームに吊り下げられている乗車案内の札を見ながら、「北斗」の自由席の乗り場を探して、ホームをウロウロ移動した。ふと、車両の傍らに立って中を、じっ と見詰めている女性に気がついた。琴乃だった。その場の雰囲気から、予備校へいく為に、東京へ旅立つ彼氏を見送りに来たのだと察した。
　僕とシュウは、お互いに顔を見合わせてから、ホームにある太い柱の影に、そそくさと身を隠してから、そっと顔を出して、様子を窺った。
　琴乃は、硝子越しに、車内に座っている青年に向かって何かを語り掛けていた。
　青年も琴乃を見詰めて語り掛けていた。
　やがて、列車の出発を告げるアナウンスが入り、列車のドアが閉まった。窓に手を触れていた琴乃は、一歩後ろに下がって、列車から離れた。
　プラットフォームの喧騒が嘘のように、二人が見詰め合う空間だけは時間が止まったように静かだった。
　出発直前の鉄道員の笛が響き渡った。
　琴乃は、想いを抑え切れなくなったのだろう、振っていた手を口に当てると、一筋の涙を零した。
　列車は、定刻通りに動き出し、青年を運び去っていった。
　ホームから列車が消え去っても、琴乃は頬を伝う涙を拭わずに、ホームの先をじっと見詰ていた。
　列車を見届けた琴乃は、ホームから足早に去って行った。

　先日、琴乃と話をした時は、彼氏が東京の予備校に行ってしまっても、全然平気だと語っていた。しかし、ホームに零れた涙が、それは強がりだった事を教えてくれた。
　僕の背後から、しきりに洟（はなみず）を啜（すす）る音が聞こえていきた。
　僕は、ポケットからハンカチを出して、シュウに手渡した。

第８１章　終了

→　第８２章　北海道の車窓から－札幌編－　　へ

　ご感想、ご意見を、メールでお寄せいただけると嬉しいです。
　お気軽にお送り下さい。
　office_asahina-satsuki-novel@sapporo.nifty.jp