第７４章　寄り道

　講義のあった３階から、階段を下って出口に向った。
「俺、ちょっくら先行ってるよ」とシュウは一言残し、巨体に似合わぬ軽快なステップで、僕らよりも先に、階段を下って行った。
　階下に足早に消えていったシュウを見て、琴乃が言った。
「ケーキ食べるとなったら、急に張り切っちゃって。先行って私たちの分まで食べる気じゃないわよね」と真顔で僕を見た。
『きっと…、白樺でも眺めに行ったんでねぇの？』
「白樺？白樺なんて、さっき、講義室で、ずーっと眺めてたじゃない。それを、また見に行ったの？」
『たぶん、間近で見てぇんでねぇの？』
「全く、失礼しちゃうわね。私達と一緒に歩くより、白樺の方が大事なのかしら」
『シュウにとっては、多分、んだど思うよ』

　琴乃と僕が、教養棟から外に出ると、案の定、シュウは白樺林の中にいた。
　シュウは、腕を組み、真剣な眼差しで、白樺の梢を眺めていた。
　琴乃は彼に歩み寄ったが、僕は白樺林に踏み入らずに、歩道の片隅から眺めた。
「ちょっと、シュウ。そんな所に突っ立ってるのさ？早く、リリーに行って、ケーキ食べようよ」
　琴乃が、シュウを急かした。
「おう、分かったよ」と言ったものの、直立不動で、風にそよぐ白樺の梢に、熱い眼差しを注いでいた。
「ちょっと、聞いてるの？」
「あぁ、聞いてるよ。ほら、見てみほ。白樺の穂が、かなり大きくなって、垂れ始めて来てるよ」と指差した。
「全く、もう。全然、人の話、聞いてないっしょや」
　琴乃は、少し不貞腐れて、唇をツンとさせた。
「まぁ、良いわ。そこで気が澄むまで見てなさいよ」
　彼女は、呆れ顔で吐息を漏らした。

　琴乃は、白樺の根元に、膝を抱えてしゃがみ込んだ。
　拗ねたような彼女の行動を見て、僕は、いじらしさを思えた。
　じっと白樺の幹を見つめていた琴乃は、左手を伸ばして、笹塊（ささくれ）だったた樹皮を摘まみ、スーッと横に引っ張った。ペリペリと乾いた音を残して、樹皮が剥（む）けた。筒に入れっぱなしの賞状みたいに、クルリと丸まっていた。
　琴乃は、樹皮の両端を、両手で摘まんで広げた。樹皮を目の前に掲げて、まるでお札の真偽を確かめるかのように、表裏を引っ繰り返しながら、樹皮を観察していた。
　シュウは、相変わらず白樺林の中にいた。
　まるで握手するかのように、白樺の幹に掌を当てていた。そして、白樺の幹に耳を当てていた。
　白樺には、心臓もないのに、鼓動でも聞いているのだろうか？シュウの行動の意味が、よく理解出来なかった。
　シュウは、腕を伸ばして枝を掴（つか）んで、梢先にくっ付いている二又の角のような雄花を触っていた。そして、満足気に頷いて、ワイン色の梢から手を離した。

　琴乃が、掌いっぱいに白樺の皮を乗っけて持ってきた。
「タケミくん、ほら、白樺の笹塊が、こんなに取れたさ」
　琴乃は、嬉しそうにして白樺の樹皮を見せた。
『一個、取っていい？』
「うん。どうぞ」
　僕は、琴乃の掌から一皮だけ、摘み上げた。
　琴乃の真似をして、丸まっている樹皮を、ピンを引き伸ばして間近で眺めた。ベージュ色の扁平な楕円模様が、点線状に行儀良く並んでいた。樹皮の裏側は人肌のような色をしてた。何だか白樺の血が付いるような気がして、何だか可哀想な気分になったので、それを琴乃に返した。
　白樺を摘まんだ指先には、チョークを触った時のように、白い微粉が付着していた。

　いつの間にか戻ってきたシュウが、琴乃の背後から覗き込むように顔を出して言った。
「何だよ、琴乃。お前、白樺の皮を毟（むし）ったのか？」
「良いっしょや、別に。シュウも、触って遊んでみる？」
「飛んでもねぇだよ。皮を毟ったら、白樺が可哀想だろうが」
　シュウは、口をへの字にして、憮然とした。
「あら、そんな事はないっしょ。白樺の皮を剥くのは楽しいよ。何ていうのかな、笹塊（ささくれ）や、瘡蓋（かさぶた）って、剥がしたくなるっしょ。それと同じで、上手に剥がれると、何ともいえない快感なのさ、これがまた」
「剥ぎ取られる白樺の身にもなってみろや。痛いに決まってるじゃねーか。」
『何、はんか臭い事、言ってるのさ。白樺だって、上手に瘡蓋を取ってもらって感謝してるに決まってるっしょや。それに、捲れ上がっている皮は、私が取ろうが取るまいが、遅かれ早かれ勝手に剥がれ落ちちゃうんだがら、白樺が痛い訳ないっしょ』
「それは、そうかもしんねぇけんど…俺は、白樺の皮を毟るのは好きじゃねぇな」
　シュウは、琴乃から視線を反らして、切ない表情で白樺を眺めた。
「何、 センチなこと言ってるのさ。昔の人は、白樺の皮を、焚付けにして使ったり、紙代わりにも使っのよ。白樺は、利用価値が高い木なのさ。だから別に白樺の笹塊 を捲るのは、悪い事じゃないの。そりゃ、確かに白樺は、見た目は綺麗よ。したけど、別に人間が眺めるためにある訳じゃないのよ」
「それは知らなかったな。でも、何だなぁ…」
　シュウは、驚いたような顔をしながらも、釈然としない雰囲気だった。

　琴乃は、背負っていた若草色のリュックを下ろして、中から折畳まれたポリ袋を取り出して、白樺の樹皮をポリ袋の中に入れ、袋の口を結び、リュックの中に仕舞った。
「これで良しっと。シュウ、そろそろ、ケーキ屋さんへ向かおうよ。ほら、タケミ君も、首をながーくして、待ってる事だしさ」
　琴乃は、僕を見て、苦笑いした。
「おう、そうか、すまんなぁ。思わず夢中になっちまってさ」
　シュウは、寝癖を掻きながら、口を大きく開けて笑った。
『なんも、大丈夫だ。シュウが、ここで道草食うのは、いつものことだがら、もう慣れだよ』
「そう言ってもらえると、ありがてぇよ」と頭を掻いた。
「タケミ君、甘い、甘い。もっと、ビッシッと言ってやんないと。この人の神経はゴムチューブで出来てるんだから、ビシッと言ってやらなきゃ、分かんないんさ」
　琴乃は、両腕を組んでシュウを睨んだ。
「さぁて、いざ、ケーキを食べに参ろうぞ」
　シュウは、時代劇の台詞のように言ってから、琴乃の視線から逃れるようにして、僕と肩を組んで一緒に歩き始めた。

第７４章　終了

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