朝錬を終えてから、露渕と一緒に、教養部北棟のロビーまで行った。
　そこで別れて、僕は、１コマ目の文学講読の講義に向かった。
　講義室に入ってから、中をぐるりと見渡してみると、後ろ側の席に琴乃が座っていた。
　目が合うと、彼女は、僕に向かって軽く手を振った。
　僕も手を振り、彼女の隣に座った。
『おはよう。今日は、早いな』
「当然しょ。前回は、たまたま遅刻しただけなんさ。今日は、誰よりも早く講義室には入ったんだから」
　琴乃は、少しハニカミながら微笑んだ。
『一番乗りか。今日は、やけに気合入ってるな』　
「まぁね、文学部の日本文学科を狙う女子大生としては、今日の作家は外せないんだわ」
『今日は誰だっけ？』
「えー、信じられない。今日は、芥川龍之介よ。それぐらい押さえて置きなさいよ。まぁ、タケミくんは、理系だから興味がなくてもしかたないか」
『まぁ、興味がねぇ訳ではねぇんだばって、さすがに予習するほどの気合はねぇな』
「もちろん、彼の作品は、読んだ事あるわよね」
『うん、あるよ。題名は確か、鼻とか蜘蛛の糸っていうやつだな。あの人の小説は、短いから、飽きる前に読みきれるのがいい所だな』
「彼の真髄は短編小説にあるわ。でも、短いから良いっていうのは、随分と乱暴な評価なんじゃない？」
『だって、そのぐらいの物しか読んだことねぇんだもん、仕方ねぇべ。あと羅生門とかかな』
「有名どころしか読んでないのね。そうだ、ちょうど良かった。今度暇な時にでも、読んでみてよ」
　琴乃は、鞄の中から本を取り出して僕に差し出した。芥川龍之介の小説だった。
　正直、読みたい訳でがなかったが、まるで慈善事業でもしているかのうような雰囲気で薦めてきたので、取り敢えずは受け取った。読む、読まないは、また別の話だ。

　ふと、琴乃の視線が、僕の頭の方に移った。
「タケミくん、若しかしてさシャワーを浴びたばっかりっしょ？」
『いや、違うよ』
「そう？でも、髪の毛が、凄く濡れてるよ」
　琴乃に言われて、僕は自分の髪の毛を触ってみた。
『あぁ、本当だ。確かに、まだ乾いでねぇな。実は、さっきまで朝練してだんだ。終わってから、直ぐ来たもんだがら、まだ汗が乾かねぇんだ』
「随分と熱心なんだね。今日は、先週よりも、なんだかスッキリした顔してる」
『実は、先週も朝練は、してたんだばってな…』
「先週は頭も濡れてなかったし、今にも眠そうな顔してたから、起きたばっかりなのかなって思ってたさ」
『先週の朝練は、あんまり練習できねがったんだ。それに、前の日の筋トレで、体中、筋肉痛だったがら』
「ふーん、そうだったんだ。今日は、満足が行く朝錬ができたんだね」
『んだな。んでも、なして分かったの？』
「とっても、生き生きとした表情てるからさ」
『そんたに？』
「うん、先週の覇気のない顔とは雲泥の差ね。タケミくんって、分かり易い人だね。それに、何となく、先週よりも、格好よくなった気がする」
『本当だが？いやぁ、それは嬉しいな』
「何てね、冗談よ。１週間で、人間、そこまで変わらないわよ」
『何だ冗談が…喜んで損したなぁ』と唇を尖らせた。
　琴乃は、僕の顔を見て無邪気に笑った。

　始業の鐘が成り終わってから、数秒、経ってから、講師が中に入ってきた。
　橙色のスーツに、萌黄色のシャツという衣裳だった。
　頭髪には、いつものようにたっぷりとポマードが塗られていて、テカテカとした光沢を放っていた。毎度の事ながら、講師のファッションセンスには、理解し難いものがあった。
　講師は、先週、調子の悪かったマイクの確認をしてから、今日の講義内容が載っている、テキストのページを告げた。芥川龍之介の「蜜柑」という作品だった。
　講師は、壇上でポマード頭を黒光りさながら、自分の朗読に悦に浸って、文章を読み上げていった。
　
　講義の半ば、シュウが、講義室に入って来た。
　遅刻した事を気兼ねしてか、体を丸めてそそくさと入ってきたが、誰の目にもその熊のような巨体は明らかで、隠しようがなかった。背負っていたリュックサックが、玩具（おもちゃ）のように小さく見えた。発育が飛びぬている小学生のランドセルみたいだった。
　僕たちは、彼が入って来た事に気付いたが、シュウの方は、多くの聴衆の中に埋もれいる僕たちには気付かなかった。
　シュウは、空きが多い前方の席に進み、窓際の席に腰を下ろした。
　彼の後頭部には、鳥の巣のように逆巻いた寝癖があった。
　琴乃は、それを見て、手を口に当てて、クスクスと笑っていた。
　僕は、寝癖で人前に出るのは、恥かしくて出来ない。なので、最前列の席で、堂々と皆に寝癖を見せて座るシュウの行動に、唖然とした。
　シュウは、真剣に講師の講義に耳を傾けるわけではなく、壁一面が格子状となったガラス窓から、その外に広がる白樺を眺めていた。

　文学講読の講義は、１０ぐらい分早めに終わった。
　講師が教壇を降りるや否や、学生達も引き揚げ準備は万端で、皆、颯爽と講義室を出て行った。
　僕と琴乃は、講義室を出る学生の流れがはけるのを待ってから、シュウの所に駆け寄った。
「遅刻ながらも、今日は、ちゃんと来たわね」と琴乃がシュウに話し掛けた。
　ぼんやりと外の景色を眺めていたシュウは、驚いた顔でこちらを振り返った。
「何だ、二人とも来てたのか。見かけないからサボったのかと思ってたよ」と言ってから、周囲の酸素を全て吸い込みそうな程の大きな口を開けて、欠伸をした。
「私がサボった？何、言ってのさ、それはこっちの台詞よ。今日までの講義は、全部、ブッチしてたくせに」
　琴乃は、腕組みをして言い返した。
「この講義があった日の前夜に、寮の懇親会があったもんで、朝起きるのが、辛いんだよ」
　シュウは、頭にある鳥の巣を掻いて言い訳した。
「何が懇親会よ、単なる飲み会でしょ」
「まぁ、そう言われっと、返す言葉はねぇんだけんどさ」と朗らかに笑った。
「全く、反省の色がないわね」
　琴乃は、腕組みしたまま、苦笑いした。
『今日は、ようやくシュウも来たことだし。３人で、ゆっくりケーキでも食いに行くべ』
　僕は、二人を促した。
「ケーキ？」
　シュウは、興味津々な表情で目を光らせた。
「あー、したけど残念ね。シュウは、二日酔いだから、気持ち悪くてケーキ食べられないっしょ。あー、残念、残念。タケミくん、二人だけで食べに行こうか」
　琴乃は、これ見よがしに、わざとらしく言った。
「二日酔いは、大丈夫だよ。それに、今朝は、朝飯なしで講義に来たから、途中から腹がなって仕方がねーったら、ありゃしねぇ。ケーキは、大賛成だな。いやー、今日は、頑張って講義に出たかいがあったよ」
　シュウは、満面に笑みを湛えて頷いて、リュックを手に取って立ち上がった。そして、僕らを促すかのように、軽やかにリュックを回して背負った。

第７３章　終了

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