バスケットのビデオ鑑賞会が終わった。
「明日の朝練には、ちゃんと来いよ」と露渕は、言い残して帰って行った。
　僕は、ベランダに出て、薄暗い路地を歩く露渕の後姿を見送った。

　将来は総理大臣になると言った事に対して、途轍もなく驚いた。
　そんな夢を聞けば、誰でも驚くだろう。
　並みの人間が、そんな大きな事を言えば、荒唐無稽な法螺話だと一笑に付すのだろうが、露渕なら、本当になれるのではないかと思えた。
　常日頃の、彼の言動一致の行動が、そう思わせたのだろう。彼は、デカイ事を言ってから何かをするのではなく、先に行動で示すタイプの人間だ。
　この世の中には、大口を叩くだけ叩いて何も完遂できない人間は腐るほどいる。また、大した事でもないのに、さも自分は素晴らしい事を成し遂げたのだと自慢する人間も、吐いて捨てるほどいる。だが、彼はそのような類の人間ではない。
　口で言った以上の仕事をし、だからと言ってそれを吹聴する事もなく、目標に向かってひたむきに努力している。露渕はそういう男だ。

　 それに引き換え、僕はどうだろう？露渕のような大きな夢も野望もない。正直な所、大学では好きなバスケをやり、卒業後は、数学教師として地元に帰り、自立 した社会人になれれば、それで御の字かなと思っている。ちっぽけな夢だが、数学が嫌いの子供を、一人でも多く、数学好きに出来れば良いなと思っている。
　僕は、一人っ子で他に兄弟もいないので、いずれは両親とそばで暮らした方がいいと考えている。なので、漠然とした考えだが、地元に戻り、教師をしようと考えている。地球がひっくり返っても、総理大臣にはならないだろう。

　夜一人っきりになると、洋子とゴールデンウィークに会えなくなってしまった事を思い出し、寂しくなってきた。ゴールデンウィークをどう過ごすのが良いのかを考えてみたが、その夜は、露渕と長時間に渉って議論したせいで、脳みそがヘナヘナになっていた。
　僕は悩む事を止めて、そそくさと布団を敷いて、布団にもぐって寝た。
　

　次の朝、目が覚めると直ぐに、バスケットボールやバッシュ、ジャージなどを、講義のテキストやノートなども、スポーツバッグに、ごっちゃ混ぜにして詰め込んだ。
　自転車に乗り、ちんたらとペダルを漕いで、大学に向かった。
　空は、ぼんやりと晴れていて、頬を掠める風からは、春の温もりが感じられた。
　４月の始めには、自転車に乗るには、手袋が必須アイテムだったが、手袋がなくても大丈夫だった。
　ゴールデンウィークを直前にして、札幌にも、ようやく１人前の春が訪れてきたようだ。
　土がむき出しになった花壇には、タンポポの若草が、埃を被って黒ずみながらも、逞しく鋸のようにギザギザした葉を、ロゼット状に広げて、春の光を浴びていた。
　タンポポは、花壇だけでなく、縁石の隙間や、民家の塀の隙間からも、葉を伸ばしていた。
　大学の北１８条門の街路樹は、いまだ裸のままだった。夏が来ても緑の衣を纏わないままなのではないかと思う程、頑なまでに凛とした姿で、棘棘しい樹皮を誇示していた。

　体育館に入ると、館内は伽藍としていて、物音一つ聞こえてこなかった。
　僕は、外履きを脱いで、バッシュに履き替えてから、ロビーに上がった。
　鉄扉を開けると、体育館のフロアは、カーテンが締め切られていて、真っ暗だった。
　壁に設置された配電盤まで歩いて行き、室内灯の電源スイッチを入れた。ガン、ガンという音と共に、体育館の高い天井にぶら下がっている電灯に光が点った。
　誰もいないフロアの片隅で、上着を脱いで、ブリーフとＴシャツ姿になった。そして、ジャージに着替えてから、バッシュの紐を固く縛りなおした。

　僕は、黙々とジャンプシュートの練習を繰り返した。
　放ったボールが、リングに当たったり、床に落ちたりする度に、その音が、体育館に響いた。
　ジャンプシュートを何十回と繰り返して入るうちに、体が温まり、額に汗が滲んできた。
　十分ぐらいしてから、露渕が体育館に来た。
　それから、僕と露渕は、黙々とシュート練習に打ち込んだ。

　１コマ目の講義が始まる３０分ぐらい前になった頃、僕は露渕に、１対１の勝負を申し込んだ。
『ツユ、そろそろ、ワン・オン・ワンの勝負するべ。点数は、１１点先行で良いが？』
「ごめん、タゲ。今日は、まだ５０本しかシュート決めてないから、ワン・オン・ワンの勝負する時間が取れないな」
　露渕は残念そうに答えた。
『何本までやるんだ？』
「１日、最低、１００本決めるまで、やってるんだ」
『１００本も？それって、シュートを打つだけでねくって、決めるんだべ？』
「そう、決めないと練習している意味がないと思うんだ。本数を打つだけの練習だと、やりっぱなしになって、練習に身が入らないからね」
『なるほど。我は、取り敢えず今日はこのぐらいの時間、シュート練習したがら、良いやって満足してだよ』
「決める本数を予め設定してやった方が、練習の質が上がるよ。それに、目標の本数を決めるのにかかった時間で、上達の度合いとか、その日の調子とかも分かるしね」
『んだば、早速、我も明日からやってみるかな』
「彼女に発破掛けられて、タゲも大分モチベーションが上がったみたいだな」
　露渕は、微笑んで僕の肩を叩いた。
『別に、ヨッコは関係ねぇよ』
「本当か？でも、朝錬は、彼女に言われてやり始めたそうだな？」
『それはその通りだ。確かに、最初は彼女に尻叩かれて始めだばって、今は、本当に朝錬が楽しくてしょうがねぇんだ。ツユど違って下手くそだがら、部活の練習でも筋トレばっかりで、ろくにボールを使った練習もさせでもらえねぇし』
「タゲは線が細いから、筋トレは、将来、絶対に役に立つよ。筋トレの本当の効果は、１年後２年後に出てくるって言うからさ頑張れよ。継続は力なりだよ」
『それは、耳さタコが出来るくらい、先輩どかコーチに言われれだよ。んでも、筋トレは苦手なんだよなぁ。正直言って、ツユと一緒に朝練してる時が、一番楽しいよ』
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、筋トレも頑張らないと駄目だぜ。今から、きっちり体を作っておかないと、将来、体にガタが来るから、しっかり頑張れよ」
『ツユが、そこまで言うんだば、我も頑張るよ。んでも気をつけれ』
「何を？』
「我が筋トレや朝練を頑張れば、１年後には、エースの座をツユがら奪ってるがも知れねぇよ』
　僕は、わざと挑発的に言った。
「おう、いつでも奪ってくれよ。奪えるもんならな」
　露渕は、不敵な笑みを見せた。

　それからも、僕と露渕は黙々とシュート練習を続けた。
　ボールとバッシュの音だけが、体育館に響いていた。

第７２章　終了

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