第７０章　NBAとMBA

　受話器を、コトリと置いて炬燵に戻った。
　炬燵に入って足を伸ばすと、ハーっと溜息が漏れた。
　ゴールデンウィークの一番の楽しみがなくなってしまった。洋子に会うことが、唯一の目的と言っても過言ではなかったのに…
「盗み聞きするみたいで悪いと思ったけど、聞こえてきちゃったよ。彼女に会えなくなっちゃったみたいだな」
『兄さんが、目の病気で手術するらしいんだ。それで、付き添いが必要だから、秋田さは戻れねぇがも知れねぇんだって』
「そうか、それは、残念だったな」
『今年のゴールデンウィークは長いがら、故郷に帰ったら、ヨッコとたくさん会えると思ってだのになぁ。何だが、帰省するのが阿呆らしくなって来たな。いっそのこと、帰るの止めるがなぁ、汽車代も馬鹿にならねぇし』
　僕は、露渕に愚痴を溢（こぼ）した。
「もう、切符は買ってしまったのか？」
『いや、まだ』
「だったら、今週末までゆっくり考えればいいんじゃない。ゴールデンウィークって行っても、北海道はまだ観光シーズンじゃないから、そんなに混雑はしないと思うぜ」
『んだば、ゴールデンウィークにどうするかは、もう少しゆっくり考えるがな』
「それで、いいと思うよ」
『所で、ツユは、ゴールデンウィークどうするの？』
「両親が転勤で、釧路に引っ越したからさ、ツーリングがてら、遊びに行こうかなって思ってるんだ。でも、北海道は、まだ肌寒いからさ。特に道東は寒いんだ」
『へぇ、ツユってバイクの免許持ってるんだ』
「うん、中免は持ってるんだ」
『中免？それって何のこと？』
「あぁ、ごめん。普通二輪免許のことだ。車と大型バイクの免許も、今年の誕生日が来てから、取ろうかなって思ってるんだ」
『ツユもそうだばって、学生でも免許持ってる人って、結構、多いよな』
「タゲは、取らないのか？」
『今の所、何も考えていないな』
「免許取るなら、早めの方が良いよ。２年になって、学部に移行してからだと、何かと忙しくなるらしいからさ」
『ふーん、んだのが。学部さ上がれば、忙しくなるんだな』
「タゲは、理Ⅰ系だろう。俺みたいな暇経（ひまけい）とは違って、学部移行してからは、すごく忙しくなるって話だよ」
『暇経って何？』
「暇な経済学部を、略して、暇経って呼んでるんだ」
『へぇー、経済学部ってそんなに暇なんだな』
「経済に限らず文系の学部は、理系に比べれば、暇らしいよ。その暇な文系学部の中でも、経済は、さらに暇って事だな。所で、タゲは、どこの学部を志望してるんだ？」
『まだ、はっきりは決めてねぇんだ』
「それは、駄目だな。ちゃんと考えを決めておかねぇと、移行する時になって泣きを見るぞ。学部に行ってから、やっぱり自分には向いてないって文句を言って も、後の祭だからな。後悔するのは自分自身だからしっかり考えておいた方が良いよ。まぁ、こういう事は、本来、高校の時に考えておくことだけど、うちの大 学の場合は、まだ選択の余地があるからな」
『ツユの言ってることは、尤（もっと）もだ。んだばって、本当にやりてぇ事がねぇんだがら、仕方がねぇべ』
「本当にやりたい事か…周りの友達を見てて思うけど、本当にやりたい事を持っている学生は、あんんまりいないと思うよ。思春期まで学校で勉強してきて、そ の教科の得意不得意で、自分は文系に向いているか、理系に向いているかを、成績と相談して決めてるだけだからな。はっきりは決めてなくてもさ、タゲにも幾 つか候補は、あるんだろう？」
『うん。一応、数学科かな。もし、駄目なら情報工学科あたりかな』
「ふーん、数学ね。数学科だったら、移行点数も低いらしいから、ドベらない限り大丈夫じゃないかな」
『へぇ、数学科って移行点が低いんだな』
「それに、数学科だったら、理系の学科の中でもかなり暇らしいよ。こんな事を言うと、不謹慎かも知れないけど、数学科だったら、自由な時間が多いだろうから、思いっきりバスケットに打ち込めるんじゃないなか」
『そっか、それは、すごく魅力的だな』
「タゲは何で数学科を志望するの？若しかして、銀行や証券の、金融関係の就職を狙ってるの？」
『金融？数学と関係があるの？』
「あぁ、大ありだぜ。今の金融には数学が不可欠なんだ。金融工学って言われるくらいだかな。今、流行の金融商品の殆どは、数学や物理を修めた人間が開発したもんだからな。まぁ、今の話は、銀行員やってる親父からの受け売りだけどな」と露渕は苦笑いした。
「ふーん、数学って金融の仕事にも使われてるんだな。それは、全く知らねがったな。我が、数学科に行きたい理由は、大したもんでねぇんだ。ただ、子供の頃 から、算数や数学だけは好きだから。それに、数学科だったら卒業後、高校数学の教員免許も取れるし。それで、ツユは、何で経済学部にしたの？』
「俺、将来は、起業して会社を経営したいと思ってるんだ。それで、経済学部にしたんだ。それに、成績次第だけど、うちの経済学部は、公費でアメリカ留学に行けるから、それも狙ってるんだ」
『へぇ、アメリカ留学か、それは凄いな…』と僕は目を丸くした。
「勿論、競争率は高いけど自信はあるよ。もし公費留学は駄目だったとしても、絶対にアメリカのビジネススクールに留学して、ＭＢＡを取得したいんだ」
『ＭＢＡって何だ？呼び方が、ＮＢＡに似てるな』
「はっ、はっは。ＮＢＡとは全く違うよ。ＭＢＡっていうのは、経営学修士の事さ。そして、ＭＢＡを取ってから、会社を興す」
『それって、社長になるって事？』
「まぁ、簡単にいうとそう言うことだな」
『随分と、でっかい野望だな。すごいなぁ』
「別に、すごくはないさ。誰でも、それなりの資本金があって届け出れば、社長にはなれるんだぜ。大事なのは、会社を経営して、どのぐらい儲けるかって事だな。俺は、ガンガン、儲けてやるぜ」
　露渕は、ビールで仄かに赤らんだ顔で、目を輝かせて語った。

第７０章　終了

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