第６６章　悪巧み

　ロシア語の小テストは、「おはよう」、「ご機嫌如何ですか？」、「これは何ですか？」などの日常会話についての設問だったが、半分も分からなかった。
　講師は、大きな声を響かせながら、テキストを朗々と読み上げていた。学生達は講師に続いて、ロシア語で反復した。

　ロシア語の講義が終わるとすぐに、僕は、長沼から英語のノートを借りて、コピー機のある生協会館へ走った。
　階段を駆け上がり、コピー機の所まで行くと、既に数人が並んでいた。前の人が早く終わらないかと気を揉みながら、自分の番が来るのを待った。
　僕の一つ前の人が分厚い資料を持っていて、そのコピーが終わるまで、やたらと時間が掛かったので、コピー機が吐き出す紙を、ヤキモキしながら眺めた。
　他のコピー機に並んでいる行列に移ろうかとも思ったが、最後尾から並び直すのも癪（しゃく）だったし、時間も掛かりそうだったので、辛抱した。
　残り５分に差し迫った所で、前の人がようやく終わった。
　急いでノートを開き、コピー機の硝子面に置いた。
　カバーを被（かぶ）せて、コピー開始のボタンを押した。すると、ピー、ピー言って、エラーメッセージが出た。用紙が切れてしまったのようだ。
「くそったれ」と舌を打った。前の人が、たくさん紙を使ったせいだ。ただでさえ、腹が立っていたのに、腸（はらわた）が煮え繰り返る思いだった。
　棚の上から用紙を取り出し、包装紙を破いてコピー機に入れた。
　すったもんだの末、無事にコピーを済ませてから、英語の講義へ全力で走った。

　講義室のドアを、そろりと開けて中を覗くと、教壇には既に講師が立っていて、出欠を取り始める所だった。
　彼女は、紫色の派手なスーツを着ていた。先週のスーツとは違うなる色だったが、相変わらずのケベケバな身なりだった。濃い化粧とベタ黒のアイシャドーは、童話に出てくる魔女の顔を連想させた。
　そろりと中に入ったが、目敏く見つかった。
「はい、今、入って来た、GUY。もう時間は、過ぎてますよ。Definitely, 遅刻。えーと、名前は？」
『倉内です』
「Mr.倉内、時間厳守は、大人の常識ですよ。始業時間には、1second でも遅れてはいけません」
『はい、分かりました』
　僕は返事をして、席に座った。
　長沼の席を通り過ぎる時に、ケバケバ講師に気付かれないように、こっそりとノートを彼の机に上に置いた。

　テキストを順番に和訳していくという、退屈、極まりない講義が始まった。
　自分が当たりそうなセンテンスを黙読して、長沼ノートのコピーを参考にしながら、知らない英単語を辞書で調べて、自分の番に備えた。
　僕に、当てられた英文は、特に難しい箇所もなく、平穏無事に過ぎた。
　「異文化へ招待」というテキストの題名と、講義内容は程遠く、日本の保守的な教育にどっぷり浸かった授業だった。
　自分の発表が終わると、急に眠くなってきた。
　遅刻で注意されたばかりなので、ここで居眠りを見つかったら、ヒステリックな講師に、本格的に目を付けられてしまう、と気を引き締めた。
　頬を叩いたり、手の甲を抓（つね）ったり、こめかみを指圧したりしながら、睡魔とがっぷり四つの戦いを演じた。
　しかし、睡魔の方が、一枚上手だったようで、徐々に土俵際に押し込まれ、ウトウトし始めた。
　土俵俵に足を掛けて、何とか踏ん張ったが、睡魔の強烈ながぶり寄りに屈して、ついに土俵を割ってしまった。
　ふと目が覚めた。一体、どれくらい寝ていたのだろうか。幸いに、講師から注意は受けなかった。


　英語の講義が終わると、僕は、筑紫と一緒に、講義の経済学へ出席した。その日は、企業と家計についてだった。
　入口付近の席座ったが、教壇に立つ講師は、遥か彼方にいて、親指ぐらいにしか見えなかった。コンサートホールにあるような馬鹿でかいスピーカーから出て くる、講師の声聞いていたが、筑紫は、講義には全く耳を傾けず、自動車の雑誌を食い入るように見て、時々、缶コーヒーを、美味そうに啜（すす）っていた。

　講義の途中で、筑紫が僕の耳元で囁（ささや）いた。
「あのさぁ、相談があるんだけどさ」
『相談って、何？』
「ゴールデンウィーク開けてからさ、教養棟で肝試しやろうぜ」
『お前、まだ、そんたら事を言って…長沼と喧嘩する気だが？』
「大丈夫。長沼とはもう話が付いているんだ」
『話が付いてらって？あの怖がりの長沼が、よく了解したなぁ』
「長沼には、ちゃんと説明しておいたから、大丈夫だ」
『説明って、何を説明したんだ？肝試しに、説明もへったくりもねぇべ』
「ヤラセだって事をだよ」
『ヤラセで肝試しするの？』
「そうなんだ。幽霊役は、寮の先輩に頼んで、やってもらうんだ」
『んでも、その事を、ばらしてしまったら、肝試しにならねぇべっしゃ』
「シュウには、まだ話してない。っていうか、話さないつもりだよ」
『シュウには内緒にするんだが？』
「そう」
『シュウを騙（だま）すのには、反対だな』
「別に騙すわけじゃないぜ。肝試しやろうって話が出たときも、別に反対してなかったしさ。シュウは、普通に肝試しやろうって言っても参加すると思うんだ。 十分に度胸があるからな。ただ、肝試しの話が出た時に、長沼とタケは、結構ビビってたじゃん。だから、普通に肝試しやろうって誘っても参加しないと思った んだ」
『んでもなぁ～何だがシュウを騙すみたいで、気が進まねぇなあ』
「そんな事ないって、大丈夫だよ。No Problem」と筑紫は、コーヒーを啜った。
『んだば、別に先輩にお化けを頼まねくてもいいでねぇの？』
「何にも出てこないと、詰まんないじゃん」
『んでも、筑紫には、幽霊が見えるんだべ？』
「俺が見える？」
『んだ、この間、俺には見えるって言ったべ？』
「オイオイ、タケ。本気にしないでよ。冗談に決まってるじゃん」
『何だ、嘘かよ。筑紫にも見えるんだと思って、安心したのに』
「まぁ、遊園地のお化け屋敷のつもりでやろうよ。内心は、タケも、ちょっとは、シュウのビビル顔が見てみたいだろう？」
『やっぱり、そういう魂胆か。筑紫は、シュウを吃驚（びっくり）させるたいから、やりてぇんだべ？』
「単刀直入に言うと、そういう事だ」
『せば、やっぱり、絶対に反対だ』
「なんでだよ、やろうよ。タケって変なところで頑固だよな、全く。まぁ良いや。ちょっと、考えておいてよ」
　筑紫は、そう言った後、何事もなかったかのように、また、車の雑誌を読み始めた。
　その後、僕は、筑紫の悪巧みに対する苛立ちで、講義内容は上の空だった。

第６６章　終了

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