第６５章　幸せな白樺

　学食の重い扉を押し開けて、外へ出た。
　空を見上げると、濃淡のない薄墨色の雲が、無表情に、下界を見下ろしていた。

　図書館に向う途中、シュウが、いつものように白樺を見上げて立ち止まった。
　目を細めて白樺を仰ぐシュウに向って、筑紫が言った。
「どうだい、白樺博士。白樺に春はやって来たかい？」
「うん。もう、そろそろだな」とシュウが頷いた。
『あんまり変わったように見えねぇばってなぁ』と僕は首を傾げた。
「アゲハ蝶の幼虫の角みたいに、ピョンっと上向きなっていた穂が、段々と大きくなって来てる。上向きだったのが、徐々に下がってきていて、今は、水平ぐらいに、なっているだろう？」
「そうかな？前とあまり変わりないんじゃない」と筑紫も首を捻った。
「ほれっ、あそこ。見てみほ。あのワイン色になった梢の先を」と、シュウが一生懸命になって指差した。
「むー。俺には、よく分かんねぇや」
『我も良く分がんぇねな』
　筑紫と僕は、首を傾げた。
「僕も良く分からないな。桜の花みたいに分かり易いと良いんだけどな」
　長沼も首を傾げた。
　シュウは、腕組みをして難しい顔をして何か考え込んでしまった。

「所で白樺には、花が咲かないのか？」と筑紫が尋ねた。
「あの角みたいなのが、花と言えば花なんだけんどなぁ」とシュウが答えた。
「へっ、あれが花かい？」と長沼が拍子抜けした顔をした。
「雄花だから、桜のような花弁（はなびら）はないんだ」
「花弁がないなんて、見応えがないな」と筑紫が、ぶっきらぼうに言った。
　シュウは、歩道から白樺の下に歩み寄った。
　僕は、左袖を手繰（たぐ）って、腕時計を一瞥（いちべつ）した。
　ロシア語の開始まで、３０分ぐらいしかなかったので、少し焦（あせ）りを感じた。

　シュウは、白樺の幹を優しく擦ってから、振り向いて言った。
「本来、植物にとって花弁（はなびら）は、オマケみたいな物なんだ。一番大事なのは、雄蘂（おしべ）と雌蘂（めしべ）だからさ。花弁があるとないとじゃ、 見映えが全然違うけど、それは、人間から見たエゴであって、その植物が生き残るためには、あまり重要な事じゃねぇんだ。白樺は、風を使って花粉を飛ばすか ら、綺麗な花弁は必要ない。寧ろ、目立つ花弁は、昆虫などに狙われるから、無用でしかないんだ」
「したけどさぁ、桜は花が美しいから植えられるし、桃や柿なんかは実が美味いから植えられる訳っしょ。したら、花や実は、その植物自身が生き残るためは、重要な事なんじゃないのかい？」
　長沼は、意見してから、白樺へ歩み寄った。
　僕は、白樺談義など早々と切り上げて、ロシア語のテストの”アガキ”をしたかった。しかし、話が盛り上がっていたので、それを言い出せなかった。
　そんな苛立ちをよそに、シュウは話を続けた。
「でも、基本的に綺麗な花を咲かせるのは、花粉を運んでもらうために虫を呼んでいるんだし、果実を実らせるのも、それを食べる動物に、糞と一緒に種を、ば ら蒔（ま）いてもらったり、運んでもらったりするためなんだ。だから、綺麗な花を咲かせたり、美味しい果実をつけるのは、限られた草木だけなんだ」
「なるほどね。全部の植物が、そう言うことではないって訳だ。したけど裏を返せば、桜や桃は、人間を上手に使って繁殖しているって事だべ」と長沼が行った。
「うん。まぁ、そう言うことだな」
「でもさあ、植物には視覚とか味覚ってないんだろう？それなのに、何で、人間の好きな色とか味とかを作り出せるんだ？」と筑紫までも、白樺の方へ歩いて行った。
　僕は、筑紫が白樺談義の腰を折ってくれないかと、密かに期待していたが、見事に裏切られてしまった。
　僕は一人で道端に残り、無言のレジスタンスを続けた。

「日本人が花見用に好んで植えている染井吉野は、人間が幾つかの桜を掛け合わせて作り出した園芸種なんだ。栽培用の桃とか梅、それに林檎もそうだな。人間の好みに合うように作り変えたからこそ、地球上にドンドンと広まったんだ」とシュウが言った。
「それって、何だか、ペットみたいだな。動物のペットだと犬とか猫が相場だけど、植物だと、桜や桃が人間のペットって事か」と筑紫は皮肉を吐いた。
「まぁ、そう言うことだな。でも、園芸種にしても天然種にしても、一つの命である事に変わりはない。言い換えれば、動物や植物にも色んな生き様があるってことだに」
　シュウは、感慨深げに白樺の幹をポンポンと叩いた。
　筑紫も、幹をポンポン叩きながら言った。
「白樺は幸せだな」
「どうして、幸せって言えるんだい？そんなの白樺に聞かなきゃ、分からんべさ」と長沼が不思議そうな顔をした。
「白樺は、花が桜みたいに綺麗でもないし、リンゴみたいに旨い実がなるわけでもない。この白い幹が珍しいから人間が植えるんだろう。だったら、人間が白樺 に飽きるか、人間が滅びるかしないと、植樹され続けるわけだから、絶滅する事はないじゃないか。全くもって、白樺の将来は安泰だぜ」
「だからって、幸せとは限らないんでないの？人間だって、そうだべさ？」と長沼が言った。
「シュウみたいな人間がいるから、白樺は幸せなんだよ」と筑紫が答えた。
「俺がいるから？」とシュウは、不思議そうな顔をした。
「そうだよ。白樺はシュウに愛されている。だから幸せって言ったんだよ。人間だって、他人から心底愛されるってのは難しいぜ。どんなに辛くても、愛してくれてる人がいれば、幸せだと思うぜ、俺は。良かったな、白樺くん。愛する人がいてくれてさ」
　筑紫は、白樺に語り掛けて、白い幹を撫（な）でた。
「つまり、シュウのような人間を利用して、白樺は子孫を多く残してるって事っしょ。なまら、したたかだなぁ」
　長沼も、白い幹を撫でた。
「とどのつまり、俺は白樺にいいように使われているって事か」
　シュウは、大口を開いて高らかに笑った。
　通行人は、白樺の下で豪快に笑う熊のような男を見て、苦笑していた。

第６５章　終了

　→　第６６章　悪巧み　へ

　ご感想、ご意見を、メールでお寄せいただけると嬉しいです。
　お気軽にお送り下さい。
　office_asahina-satsuki-novel@sapporo.nifty.jp