第６２章　スパコイナイ・ノーチ

　新歓コンパの次の朝、極度の二日酔いが僕を襲った。
　胸の奥に蟠（わだかま）る吐き気。
　脳味噌が壊されたような頭痛。
　異様な喉の渇き。
　全身を覆う倦怠感。
　立ち上がろうとしても、足腰に力が入らず、起き上がれなかった。

　床を這って台所まで行き、立ち上がり、水道の蛇口を捻った。
　コップを掴んだ手が、プルプルと震えた。水を満たして啜（すす）ったが、小刻みな震えのせいで、口元から水が垂れて、襟元を濡らした。
　自由に動かない体と、極上の気持ち悪さに、自分は、このまま死ぬんじゃないかと思った。
　体の中の細胞一つ一つが、悲鳴を上げている。そんな感覚だった。

　疼（うず）いていた吐き気が、胸に込み上げてきた。
　何とか我慢しながら、トカゲのように這いつくばってトイレに向かった。
　トイレに入り、便座にしがみ付きながら、顔を翳（かざ）した。
　喉元から湧き上がって来た物体が、勢い良く吐瀉（としゃ）された。
　歯茎に残骸が挟まり、虫唾（むしず）の味が絡み付いた。
　吐気の度に、喉の底から湧き上がってくるのは、、酸っぱ苦い胃液だけだった。
　長い間、便座を抱きかかえ、便器に首を突っ込んだまま動けなかった。
　結局、終日（ひねもす）、便座と熱い抱擁を交わし、台所で水を飲み、布団の中で極上の気持ち悪さにのたうちまわった。
　そのうち、太陽が傾き、黄昏を迎えた。
　上体を起こしただけで、吐き気が頭を擡（もた）げ、脳の中でナメクジが、ズリズリと動き回った。
　ただただ、目を瞑（つむ）って時が過ぎるのを待った。

　電話の呼鈴が、けたたましく響いた。布団から顔を出すと、部屋の中は、真っ暗だった。体がしんどくて、電話に出るのが嫌だったが、電話の音が異様なほどに耳障りだった。
　必死に起き上がって、受話器を取った。手には、まだ震えが残っていた。
「もしもし。ヨッコです。タゲ、元気？」
『いや、元気でねぇ。二日酔いで死にそうだ』
「大丈夫だが？しんどそうだなぁ。そう言えば、新歓コンパあるって言ってだね」
『んだ。それで、飲み過ぎてしまった』
「どうせ、調子扱いて、飲み過ぎだんだべ？」
　洋子に図星を付かれ、耳が痛かった。
『なもだ。先輩に飲ませられたんだよ』
「ふーん、さすがに体育会の部活の先輩は厳しいね」
『いろんな先輩がいるよ。んでも、昨日は運が悪くて、恐ろしい先輩の横になってしまったんだ』
　脳裡に、小麻子さんの顔が浮かんだ。
「それだば、それは大変だったな」
『今日は、二日酔いで、ずっと寝てだんだ』
「えーっ、もしかして、今まで寝でだの？」
『んだ。もう、気持ち悪りぃし、頭痛でぇし、本当に死ぬがど思ったよ』
「今、電話してで、大丈夫？」
『実は、立ってるのも、つれぇんだ』
「ちょこっと話したい事あったんだばって、また、明日にでも電話するよ」
『何、話してぇ事って？』
「今日は、辛そうだがら。また、明日にするよ」
『悪りぃな。ごめんしてけれ』
「仕方ねぇがら許してやるがな。その代わり、ゆっくり休んで、明日は元気に電話さ出でね」
『うん、分がった』
「んだば、また明日ね。スパコイナイ、ノーチ」
『せば、お休み。スパコイ…ナイチン』
　思考は上手く回らず、ロシア語での「おやすみなさい」は、尻切れ蜻蛉（とんぼ）になった。
　電話を切った後、スパコイナイノーチを有言実行。
　布団に戻って、速攻、眠りに付いた。
　
第６２章　終了

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