朝比奈颯季　ネット小説 / Satsuki Asahina Web Novel : 軽井沢ヴィラ・ヘメロカリス / Karuizawa Villa Hemerocallis : 第１０章石尊山と追分宿

　第１０章　石尊山と追分宿

　矢崎はベッドで目覚めると、大きく伸びをした。時計を見ると、朝の八時を回っていた。予定よりもかなり寝坊してしまった。昨晩、ホテルに帰ってきたのは何時だったか…思い出せない。午前零時は回っていたように思うが、はっきり覚えていない。料理と地酒が美味かったので、ついつい飲みすぎてしまった。

　カーテンを開け放つと、窓の向こうには浅間山がドッカリと構えていた。赤茶けた山肌を青空に晒し、数万年前に大爆発したという追分噴火口をあんぐりと広げていた。噴火口の壁面は錆のように爛れていて、今にも壁が破れて溶岩が吹き出てきそうな空恐ろしさを感じた。
　『吹飛ばす　石は　浅間の野分かな』か、確かに、ドデカイ石が、飛んできそうだな。松尾芭蕉も、浅間山を、目の前にして、恐ろしくおもったんだろうなと、つぶやいた。
　ベランダに出て、朝の空気を吸っていると、森の方から鳥の声が聞こえてきた。ホッキョ・キョケキョ…と、東京特許許可局とも形容される、不如帰(ホトトギス)の威勢の良い鳴き声が、夏の高原に響き渡っていた。
　ベランダで、ボーっとしてｋら、シャワーを浴びることにした。シャワールームに置かれていた、バスローブもふかふかで体が埋もれそうな感触だった。スイートルームとなると全てが最高級だった。フェイスタオルもコットンで感触が良い。しかも何個も置いてあった。撮影する時の、汗拭きに丁度良いと思い、タオルを数枚拝借して、鞄に入れた。

　ルームサービスで朝食を頼む事にしたが、深酒で余り腹が減っていなかったので、パンとコーヒーのモーニングセットにした。
　朝食を食べながら、昨晩の事を思い返してみた。
　石墨から依頼された用件は二件だった。一つ目は、軽井沢の名所を巡って写真を撮って来て欲しいという事。もう一つは、熱海で探偵ごっこをして欲しいという依頼だった。
　あまりに突拍子もない依頼だった。断りたかったが、無料でスイートルームに泊めて貰っている手前、無下に断る訳にもいかなかった。気乗りはしなかったが、報酬が百万円と言われ、酒で気が大きくなっていたこともあり、安易に了解してしまった。

　石墨からの依頼の仕事の話が終わった後に、矢崎は写真三昧の旅について滔々(とうとう)と話をした。話をしている内に、愛子が誰に似ていたのかを、おぼろげながら思い出した。あの美しい瞳と落ち着いた声…夕焼けの砂浜で会った女性に、何処となく似ている。あの時は、夕日が逆光になっていて、顔がはっきりと見えなかったが、愛子だったのではないだろうか…そんな回想を石墨に話すと、彼は目を引ん剥いて話に食いついてきた。
　そして、問題の写真を見るなり、写真を引き伸ばして、明日持ってきて欲しいと話した。ネガがあるので焼き増しはできると返答すると、彼は蛇のように口を裂いて笑った。その顔を見て、薄気味悪さを感じずにはいられなかった。

　朝食後のコーヒーを飲んだ。
　それから、「さて、今日は忙しくなる。天気の良いうちに写真を撮りにいかなければ」と立ち上がった。部屋を出てから、まず受付で、最寄りの写真屋の場所を聞くと、ホテルから車で十分ほど行った中軽井沢駅の近くにある店を紹介された。

　

　参考写真　：　中軽井沢駅　（しなの鉄道 website より）

　矢崎は、ホテルから出る時に、エントランスホールで、稲葉と擦れ違った。昨日、愛子と並んで歩いていた背の高いハンサムな男だ。
　矢崎は、思い切って声をかけた。
｢あのう、以前、どこかで会いませんでしたか？｣
｢さあ、覚えておりませんが…すいません、私これから朝の会議があって急いでおりますので、失礼します｣と慇懃無礼(いんぎんぶれい)に足早に去って行った。
　彼の後ろ姿を眺めながら、やはり、どこかで見たような気がすると感じた。

　ホテルを出て駐車場に向かう途中、花壇にレモン色の花が咲いていた。普通の夕菅(ゆうすげ)よりも、背が高くて花数が多かった。
　この花が、大開発と自然保護で揺れる軽井沢で、野生種の絶滅が危ぶまれている軽井沢黄菅なのだろうと、矢崎は顔を寄せてじっくり観察した。
　花を眺めていると、昨夜の酒席で、石墨が言っていた台詞を思い出した。
「花なんて種を植えれば生えるんだから、野生にこだわる自然保護団体の考えは理解できない」と石墨が言っていた。
　自然の撮影をライフワークしている矢崎にとっては、承服できない言葉だった。生物多様性や生態系の大切さを力説したが、彼は、「自然保護に関する議論はまっぴらだ」と言って話題を変えて、まともに取り合わなかった。

　矢崎は、朝露に濡れる軽井沢黄菅の匂いを嗅いでみた。柑橘系にも似た爽やかな香りが鼻をなでた。普通、菅の花には、香りがない。霧ヶ峰の群落が有名な日光黄菅にも香りはないが、夕菅には香りがある。
　周囲をキョロキョロと見回して、誰も居ないのを確認してから、一輪の花を手折った。そして、ポケットから押花用の大きめの手帳を取り出して、その中に挟んだ。

　矢崎は、レンタカーに乗り、写真屋に向かった。石墨から頼まれた写真を、大判サイズで焼増し注文してから、すぐに石尊山の登山道に、車で向かった。石尊山は、浅間山の寄生火山の一つで、麓から見ると小高い丘のように見える。

　登山道の駐車場に車を停めてから、三脚を担いで登った。鬱蒼とした松や樅(もみ)の森が広がっていた。
　休憩なしで山頂を目指した。道すがら、沢山の野草が咲いていた。立ち止まって撮影したいのは山々だったが、雲が出ないうちに山頂に付かなくてはいけなかった。
　熊鈴を鳴らして、登ること二時間半。ようやく山頂に着いた。照り付ける日差しは強烈で、吹き出る汗が、しばらく止まらなかった。また時々、何処からともなく、硫黄系のガスの臭いが漂ってきた。
　ホテルから拝借してきたコットンタオルで汗を拭った。頂に立つと、浅間山の噴煙が眼前に迫り、古い噴火口が巨大な口を開けていた。食べられてしまいそうな迫力だった。
　浅間山の写真を何枚か撮った後、石墨に指示されたように、山麓の森の中を見渡してヴィラ・ヘメロカリスの建物探した。緑の絨毯の中に、ポツリと白亜のホテルが見えた。望遠レンズを付けて、ズームを効かせて、ホテルの写真を撮った。

　下山する途中、血の池、血の滝、座禅屈という観光スポットを巡って、写真に収めた。血の池とか滝とか、ずいぶんと物騒な名前で、推理小説なんかでは、殺人事件が起きそうな場所だ。
　血の色のような鮮やかな赤色をした池や滝かと期待してたが、ぱっとみは、単に茶色く濁っているだけだ。観光的には、真っ赤な方が、客が呼べると思うのだが、茶色く濁っているだけでは、正直、客は来ないだろう。まぁ、軽井沢の隠れた秘境ポイントと言った所だろう。
　浅間山の山腹に源流があり、鉄分が多いため、空気に触れると徐々に酸化して、濁った色になる。そのため、雨が降らなくても、年がら年中、濁っていらしい。それが由来して、血の池、血の滝から流れくだった川は、濁川という、見た目、そのままの名前で呼ばれていると、解説の板に書かれていた。

　

　座禅屈には、不動明王の石仏が、二体、祀られていた。火炎を背負い、手には物々しい剣を持っている。厳しい顔で、人間をにらみつけ、『カンマーン、カンマーン』と、英語聞きすると、『こっちに来い』と言ってようにも聞こえる。真言で、こっちの仏道の世界に来いと、いざなっているのだろう。
　小さな洞窟で、雨宿り程度には、使えるかもしれないが、風雪に耐えるには厳しい場所だ。かつて、この辺では、修験道の修行が行われていたそうで、その名残で、不動明王が鎮座している。ただ、強面で知られる天下の不動明王も、辺鄙な山の中に一人過ごすのは、寂しいようで、仲良く二人、『今年の夏は雨の日が多くて、登山客が少くねぇのう』なんて、世間話でも、交わしながら過ごしているのだろう。
　石尊山への往復を終えて、登山道の出口まで戻ってきた頃には、既に正午を回っていた。太陽は南天にあり、紫外線豊富な光を、さんさんと降り注いでいた。いやはや、低い山とは言え、短時間で往復したので、足腰がくたびれた。そして、何よりも腹が減った。
　登山道から、程近い追分宿の蕎麦屋に入って、生粉打ちざる蕎麦を食べた。こしがあって、喉越しがよい。空腹もあって、大きな音を立てて、汁を飛ばして、一気に食べた。小鉢に乗っていた野沢菜は、少し醗酵が進んでいるのか、酸味と独特の香りが強かったが、これもまた信州の伝統の味なのだろう。
　食後に、爪楊枝で食い滓を取りながら、蕎麦湯を、タレ汁に注いだ。汁のしょっぱ味と、蕎麦湯まる味が、交じり合い、丁度よい塩梅（あんばい）になった。全部の蕎麦湯を飲みきると、結構な量になり、だいぶ満腹になった。さてさて、腹拵えは済んだが、なかなか重い腰が上がらなかった。
　登山の疲労と満腹感で眠くなったが、気合を入れ直して、次の撮影ポイントである追分宿を歩いた。
　追分宿は、江戸時代に、江戸と京都とをつなぐ街道として整備された中仙道の宿場町の一つだ。現在の軽井沢町という地方自治体の町域には、いくつかの宿場町があった。大きい所でいうと、東から軽井沢宿、沓掛宿、追分宿と街道筋に、点在していた。現在においても、江戸情緒が残っているのは追分宿のみとなっている。残念ながら、軽井沢宿があった辺りは旧軽井沢銀座、沓掛宿があった辺りは、中軽井沢商店街となり、江戸情緒の江の字もない、状態となっている。

　

　
　　参考図　：　中山道の追分宿　（東信州中山道 website より )

　同じ中仙道の宿場町として、有名で保存状態がよいのは、妻籠宿、奈良井宿などだ。木曽十一宿と呼ばれ、まさに、江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気を味わえる。それに比べると、残念ながら、追分宿は、現代の街並みがメインで、所々に、宿場町の面影を残すといった程度で、見劣りしている事は否めない。地理的には、妻籠宿などは信州の西の出入り口で、追分宿などは東の出入り口にあたる。関東の方から、中仙道を通り、やってきた人々は、碓氷峠を越えて、追分宿などで、荷物を下ろし、一休みした。江戸の享保年間では、旅籠や茶屋が軒を連ねて、一大宿場町を作り、大変な賑わいだったそうだ。
　追分宿で、休みを取り、英気を養った旅人は、目的地に向けて、旅立った。
　実は、追分というのは、街道の分岐点という意で、全国各地にある。江戸の日本橋から始まる中山道は、武蔵の国（東京～埼玉）、上野の国（群馬）、信濃の国（長野）と続くが、ここ追分宿で、美濃の国（岐阜）へ向かう中仙道と、越後の国（新潟）へ向かう北国街道とに分岐する。
　深田久弥は、日本百名山という本で、追分について、以下のように語っている
「昔は古い街道が山裾を通っていた。北から北国街道が、西から中仙道が、山麓の高台へ上ってきて、追分の宿で一本になる。今の軽井沢はまだ荒涼とした不毛の高原だった。そして旅人の眼を打つのは浅間山であった。」
　江戸幕府終焉から約１５０年たった今日においても、街道の分岐点だった証として、『分去れの碑』が残されている。
　矢崎は、その『分去れの碑』を、色々な角度から撮影したが、車の往来が激しく、あんまりゆっくりと撮影できなかった。江戸時代に、人や馬だったものが、現代においては自動車に形を変えたが、昔も今も変わらず、せわしく行きかっている。道具は変わったが、人間がやることは、１５０年経っても、変わらない。ただ、昔の人は、宿を取りつつ、ゆっくりと時間を掛けて旅ができた。かたや、現代は、ガソリンスタンドやコンビニで、せわしく燃料補給して、先を急ぐ。誰もが、何かに、急き立てられているかのように。狭い日本、そんなに、急いでどこに行くと、言いたくなるのは、自分だけではないだろう。

　その後は、江戸時代の宿場街の面影を残す枡形の茶屋や油屋旅館を巡り歩き、軽井沢を舞台にした小説『美しい村』で有名な堀辰雄の文学館や、分節発祥の地である追分宿の歴史を展示した郷土資料館、中山道６９次資料館を見学した。などを訪ね歩いた。歴史や文学に、興味があれば、楽しく過ごせるだろうが、あまり興味のない方には、退屈に感じる施設だ。
　追分宿の撮影を終えてから、茶屋に入って追分だんごを食べて一休みした。
　一息ついてから、豆腐屋のあたりで、宿場筋の道からそれて、信濃追分駅へと続く道を歩いた。道沿いは、高い緑樹に囲まれて、別荘が点在していた。木漏れ日が美しく、囀る野鳥の声も清々しかった。

　信濃追分駅の先に、借宿という集落があった。少し薄暗い別荘地とは打って変わって、畑が広がる集落は、陽光が溢れて、明るかった。家々の周りには、トウモロコシや蕎麦、レタスやキャベツなどの高原野菜の畑が広がっていた。
　集落の庭先には、世話の行き届いた美しい花々が咲いていた。艶やかなピンクの花魁草、大輪のダリア、薄紫の山蛍袋などが目を楽しませてくれた。
　特に目を惹いたのが、山百合だった。艶を競うようにして、大輪の山百合が庭々で風に揺れていた。将に花の王者という風格だった。
　歩いていると「美しい村」という言葉が、自然と頭に浮かんできた。
高級別荘地というイメージを持っていた軽井沢に、こんなに美しい村があるとは思わなかった。歩いているだけで心が癒された。
　撮影に没頭していると、いつの間にか日が傾いてきた。あんまりのんびり撮影していると写真屋が閉まってしまうと思い、急いで車に戻り、写真屋へ向った。

　写真を受け取り、ホテル戻った頃には、６時を回っていた。終日歩き回って、汗だくになったので、一っ風呂浴びないと、気持ち悪くて仕方がなかった。
　部屋に入ると荷物を降ろし、直ぐに風呂に入った。温かいお湯に浸かりながら、酷使した足腰の筋肉をマッサージした。一日中歩き通しだったので、還暦(かんれき)を迎えた老体には堪えた。明日も、白糸の滝を皮切りに、湯川渓谷を撮影しなければいけない。正直言って体力的には厳しい。
　今夜は、石墨と飲みに行かないで、ゆっくり体を休めたいな…というのが本音だった。

　風呂から上がってから、ふかふかのバスローブをまとってソファーに腰掛けた。
　なんだか急に、超豪華な部屋に一人でいるのが寂しくなった。こんな時、妻が一緒に居れば退屈せずに過ごせるのにと思った。ここ数日は、写真撮影に夢中になり、電話も手紙も出していなかった。明日、絵手紙でも書こうかなと、妻の顔を思い浮かべた。

　石墨との約束の時間が近付いたので、ラフな服装に着替え、ロビーへ向かった。まだ来ていなかったが、ふと油絵のギャラリー方を見ると、犬養が絵の前で腕組みをしていた。忍び足で彼の背後に歩み寄って、耳元でワッと驚かせると、犬養が体を仰け反らせて驚いた。
　予想以上の効果に、思わず笑いを洩らした。
「ごめん、ごめん。ちょっと驚かそうと思っただけなんだ」
「はぁ、びっくりした。誰かと思ったら矢崎さんじゃないですか」
「随分と、真剣に眺めているね？」
「描き終わると、ここをこうすれば良かったなとか、描き足したい所とかが出てくるんですよ。絵の前を通ると思わず立ち止まって眺めてしまうんですよ。それで時々、昨日みたいに、稲葉さんに怒られちゃうんですけどね」
　犬養は、悪戯がばれた子供のように舌をペロリと覗かせた。人懐っこくて飾り気のない青年を気に入った。
「今夜も何処かへお出かけですか？」
「実は今夜も、石墨さんに、飲みに連れていって貰うんです。七時の約束だったんですが、まだ見えられてないようですね」
「あぁ、それだったら多分、少し遅れると思いますよ。会議が長引いているみたいですから」
「犬養さんは、その会議には出ないんですか？」
「実は、余りにも長いので、トイレに行く振りをして抜けてきましたよ。専務には内緒ですよ」犬養は、朗らかに笑った。

　矢崎は、撮影で巡ってきた石尊山、追分宿、借宿の話をした。借宿の話を聞いた犬養が相好を崩して喜んだ。彼のアパートが借宿にあるらしく、まるで故郷を褒められたように上機嫌に話した。
「矢崎さんは、いつまで軽井沢に滞在なさるんですか？」
「明々後日までいるつもりです。明日は撮影の仕事で、観光名所や、白糸の滝から釜ヶ淵)までの湯川渓谷を撮影する予定です。明後日からは、のんびりと過ごそうかなと思ってます」
「それじゃ、明後日は、温泉なんかどうですか。実は、軽井沢は以外と温泉が多いんですよ」
「ここのホテルでも別棟に温泉がありますよね？」
「えぇ、ありますよ。湯加減はいかがでした？」
「実は、まだ入ってないんですよ。」
「それは勿体ない、宿泊者は無料なのに。矢崎さんは、あんまり温泉が好きじゃないんですか？」
「いえ、そんなことはありませんよ。ただ入る暇がないんですよ。日中は、依頼された撮影がありますし、夜は石墨さんと飲みがあるんで、手っ取り早く、部屋付きの風呂で済ませてます」
「部屋の風呂は、狭いでしょう？」
「いえいえ、石墨さんのご好意で、スウィートルームに泊まらせてもらっているんで、風呂は大理石造りで広いし、ジャグジーも付いていますよ。しかも、無料なんです」
「えー、けちん坊の専務が、スウィートを無料で貸してるんですか…信じられないな。まだ夏だけど、雪でも降るんじゃないかな」
「あんなに豪華な部屋に泊まったのは生まれて始めてですよ」
　犬養の驚きようをみて、自分が本当にＶＩＰのような気がしてきた。
「所で犬養さん、温泉に話を戻しますが、あなたのお勧めの温泉はどこですかね？」
「一応、営業トークで、うちの温泉を勧めておきますが、本音を言えば、そうですね。雰囲気を味わうなら蜻蛉(とんぼ)の湯ですね。泉質で選ぶなら塩沢の湯。あと、安くて穴場なのは夕菅の湯ですね」
「ほう、そんなに温泉があるんですか？」
「驚いたでしょう、矢崎さん。千ヶ滝(せんがたき)や塩壺(しおつぼ)などの温泉もあるんですよ」

　

　（ゆうすげ温泉旅館 websiteより）

　温泉話で盛り上がっていると、
「どうやら、専務が来たようですね」と犬養に言われて、矢崎は振り向いた。
　石墨が歩いてくるのが見えた。うつむき加減で、眉根には皺(しわ)を寄せていた。
「何だか機嫌が悪そうですね…」
　犬養が、矢崎に耳打ちをした。
「矢崎さん。お待たせしてすいませんね。会議が長引いてしまいまして。全く、あの石頭のロートル達を相手するのは疲れますわい」　
　石墨が、苦笑いした。
　そして、傍にいる犬養に気が付くと、語気を強めて言った。
「あれ、犬養じゃないか。お前、こんな所で油を売ってないで、仕事しろ、仕事。この馬鹿者が」
「もう仕事は終わったんで、後はもう帰るだけですよ。別にサボってなんかいませんよ。酷いなぁ、専務」
　犬養が、ニヤっとしてから矢崎に言った。
「では矢崎さん、楽しい夜をお過ごし下さい…と言っても専務と一緒じゃ楽しくないか」
「何だと、犬養。何か言ったか」
　石墨が、眉毛を吊り上げた。
「いや、何でもないですよ。じゃあ、二人ともお休みなさい」
「馬鹿もん、寝るにはまだ早いわ」と石墨が、笑った。
「全く、いけずだなぁ、専務。軽井沢に来て何年ですか？信州では、サヨナラを言う時はお休みなさいって言うじゃないですか。僕だって、専務と一緒に寝たかないですよ」
「何、犬養。また、何か言ったな」
「いや、別に何も。では、二人とも飲み過ぎないで下さいね。特に専務は酒に飲まれちゃ駄目ですよ～。いってらっしゃい」
　犬養が、からかうようにして手を振った。

　石墨と玄関に向かって歩いた
「面白い青年ですね」と呟いた。
「若手では一番仕事が出来る有能な男ですよ。ブライダル事業の実働部隊のリーダーは彼ですからね。稲葉の部下にしておくのは勿体ない人材です。ただ、ちょっと変わった男でしてねぇ。歯に衣を着せず、鋭い事をズバッと言うかと思えば、サボって絵を見たりと、何だか不思議な男ですわ。それに、彼もカメラ好きでしてね。時々、二人でカメラ談義をする事もあるんですよ。私が、社員の中で仕事を離れて、馬鹿話をできるのは彼ぐらいのものです。まぁ、カメラの腕は私の方が、数段上ですがね、はっ、はっ、は」と、機嫌良さそうに笑った。

　第10章　終了

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