第９章 匂いフェチ
クラスデコの準備作業を終えてから、亜美と知佐子は山岳部の練習に向かった。二人は、部室でＴシャツと短パンに着替えてから、いつものランニングコース
を走った。二人は山岳部の中でも一、二を争う健脚の持ち主だ。全校を上げて行われた去年の強歩大会では、女子の部で亜美が優勝、知佐子が準優勝だった。山
岳部員は、正確な判断力が要求されるが、やはり先立つ物は強靭な足腰だ。
ランニングコースの折り返し地点の神社にある楠の巨樹が見えてきた。真っ赤に染まった夕空に、シルエットを刻んでいた。鳥居を潜り、境内に入ると、木陰のひんやりとした空気が汗ばんだ体を和ませた。二人は清水が湧き上がる御手洗で水を飲んだ。
屈伸運動をしてから、亜美は楠の巨樹へ向かった。幹は大人五人で手を繋げるぐらいに太く、途中から三本の太い幹に分かれていた。その鞍部は寝転べるくら
いの平らなスペースがあった。伝説によると、日蓮上人が、幕府の追っ手から逃げた際、この楠の上で数夜を過ごしたそうだ。
枝先から一枚の葉っぱを取り、千切ってクンクンと匂いを嗅いだ。
「亜美、また楠の匂いを嗅いでるの？相変わらず臭いフェチなんだねぇ」と知佐子が呆れ顔で声をかけた。
「楠の香りって、何か頭がスッキリするよね」
「そうかな？私は何だか、防腐剤みたいで好きじゃないけどね。それよりも、早く戻らないと日が暮れて真っ暗になっちゃうよ。悪いけど、私は先に行くよ」と知佐子は鳥居を潜って走り出した。
「ちょっと知佐子、おいてかないでよ」と楠の葉を地面に捨てて後を追って走った。
校門に戻った頃には、暗くなっていて、西の空には宵の明星が煌々と光り輝いていた。校門の両脇にある極太のソテツも、夕闇の中に溶け込んでいた。部室に
戻ると、汗で濡れたＴシャツとブラを脱ぎ捨てた。タオルで汗を拭き取り、セーラー服に着替えた。無造作に櫛で髪を梳かして部室を出た。
グランドへ下る階段に腰掛けて、根岸が練習から上がって来るのを待った。イヤホンを耳に運び、再生ボタンを押した。シルクロードの優しい響きが流れて来た。曲を聞いていると、脳裏に純太の顔が浮かんできた。今日も、夜中まで美術室に籠もって頑張っているのかなと思った。
昨日の放課後、描いている途中の樹下説法図を見せてもらった。深い輝きを放つ群青と、鮮やかなエメラルドグリーンが印象的だった。煌びやかな極彩色をま
とった菩薩に、思わず息を飲んだ。しばらくの間、言葉を失って壁画の前に立ち尽くしてしまった。想像を超えた一つの芸術作品を作り上げていた。まだまだ未
完成という事だったが、完成したら一体どんな絵になるのか恐いくらいだった。純太をクラスデコに誘った理由は、純粋に絵の上手な人に手伝って欲しいという
事からだった。それまでの彼に対するイメージは、頼りない男子という感じだったが、クラスデコを作り上げる過程での議論や作業で、責任感や絵に対する情熱
を目の当たりにして見直していた。
「亜美、お待たせ」と名前を呼ばれて我に返った。目の前に根岸が立っていた。
「どうした、考え事か？」
「ごめん。ちょっと音楽に聞き入っちゃって」
「何だよ今日もシルクロードかよ。毎日、聴いていてよく飽きねぇな。ほれ帰るぞ」
根岸が伸べた手を引っ張って立ち上がった。
二人は並んで歩いた。会話をしているうちに、話題はクラスデコの話になった。そして純太が描いている壁画が物凄く上手で感動したという話に及んだ。
「お前、最近、あいつの事をよく喋るな」と根岸は、あからさまに嫌な顔をした。
「だって、本当に上手なんだよ。ケンも一度、見に来ればいいよ。絶対、感動するから」
「馬鹿言うなよ。準備をサボって部活に行ってる俺が、どの面下げてあいつの絵を見に行けるっていうんだ」
「でも、それはケンが悪いのよ。部活が始まる前のちょっとの時間だけでも準備に付き合ってくれればいいのに。それだけで、みんなの心証は違うと思うんだけどな…」
「野球の練習っていうのは、全体練習が始まる前から始まってるんだよ。道具の準備とか、心の準備とか色々あるんだよ。それに、急に全力で練習に入ったら、怪我してしまうからな。もし、そんな事になったら、甲子園への夢が絶たれてしまうんだ」
「分かってるわ。ケンには、甲子園っていう夢があるんだもん。それは仕方ないわ。でもね学祭の当日は一緒に見て回ってね」
「分かったよ。でも、自分のクラスのデコを見に行くっていうのも変な話だけどな…」
「それはケンが、手伝ってないからでしょ。でもね、きっとびっくりすると思うよ。仁科くんのお陰で、デコのメンバーも真剣に壁画に取り組んでくれてるし。彼が描いてる壁画は、めちゃくちゃ綺麗なんだから。クラスデコ大賞を取っちゃうかもよ」
「えらく嬉しそうに、あいつの話をすんだな」
「あれっ。若しかして、ケン、妬いちゃった」
「馬鹿、俺が仁科ごときに、妬くわけねぇだろう」
「ふーん、ケンも妬くことあるんだ」と下から覗きこむようにして根岸を見た。
「だから、妬いてないって言ってるだろう」
「あぁ、ムキになった。ますます怪しいな」と根岸の脇腹を指でツンツンした。
「俺は、将来、甲子園でヒーローになって、プロ入りする男だぞ。あんな、美術オタクのアバタ野郎と一緒にするな」と鼻息を荒くしてそっぽを向いた。
「素直に認めればいいものを。相変わらず可愛くないんだから。大丈夫、私が好きなのはケンだけだよ」と根岸の腕にしがみ付いて、彼の胸元に鼻を寄せて体の匂いを嗅いだ。
「私、ケンの匂いって好きよ」
「俺も、亜美の匂いが好きだよ」
根岸は、亜美を抱き寄せてキスをしようとした。
「駄目よ、ケン。誰かが見てるかも知れないよ」
「いいじゃないか。見たい奴には見せておけよ」
「職員室から見えちゃうよ。野球部の監督に見つかってもいいの？」
「げっ、それだけは、マジでやばいよ」と急に背筋を伸ばして周囲をキョロキョロと見回した。
「お楽しみは、後に取っておいて」と人指し指を彼の唇に伸ばし、封をするように触れた。
「分かったよ。じゃぁ、今週末は？」と目尻に下心を滲ませて言った。
「今週末は、クラスデコの準備で駄目なの」
「マジかよ。日曜までやるのかよ」
「だって、学祭は来週末に迫ってるのよ。もうひと頑張りなのよ」
「あ～あ、せっかく、映画を行こうと思ってたのによ」
「ごめんね」
「封切られたばっかりのスターウォーズの帝国の逆襲だぜ。学祭の準備なんかしてるよりも、絶対面白いって。準備なんて仁科にやらせておけばいいじゃん」
「ごめん、映画は学祭が終わってから行きましょう」
「俺よりも学祭の方が大事っていうことだな」
「そんな、意地悪いわないでよ」とすがるようにして宥めた。
第９章 終了
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